見出し画像

小説『随分遠くまで来たね。』

inspired by  鈴木真海子 『Contact』


「どうっていうわけでもないのよ。」と彼女が言った。彼女の目の前には海が広がっていた。僕と彼女はゴツゴツとした岩場に座っていた。足元でカサカサと何かが動く音がした。気味が悪いなと僕は思った。節がたくさんあって虫ともエビとも言えないような生き物が僕の足元で動いているのかと思うとそこから一刻も早く立ち去りたかった。でも彼女は座ったままだった。

「帰ろうか。」彼女がそう続けた。「ここまで来たけどさ、やっぱりだからどうっていうわけではないよね。何も変わらないんだよね。」

「何も変わらなかった?」

「わかんない。」

「何を変えたかったの?」

「それも、」

多分、変わったよ。と僕はい言うべきなのかもしれないし、あるいはそうだねと同意したほうがいいのかもしれなかった。少しの間、彼女の言う少しさみしい言葉を否定するべきなのか肯定するべきなのか僕はグルグルと考えて、結局何も言えなかった。

海の果てからは太陽がのぼり始めていた。

「私さ、日の出が嫌いなんだよね。」

「なんで?」

「特別な感じがして。どうでもいいことなのに。」

「そっか。」

「お正月も嫌いだし。クリスマスも嫌い。普通の日が好き。」

「でも、日の出は毎日あるから普通のことだよ。」

「でも、偉そうな気がする。日の出は。」

「そう?」

「そう。」

「でも、今日は普通の日じゃないよ。旅に出てる。」

彼女は僕の小さな反論に返事をしなかった。日の出が嫌いと言う割に彼女は白んでいく空を眺めていた。

「眩しいから、いこ。」彼女は立ち上がって原付の方に歩いて行った。

   ・

「旅に行かない?」と行ったのは彼女からだった。

僕は校内で一番人気のない5階の屋上へと続く階段に腰掛けていた。屋上へと続くドアは閉じていたし理科室と視聴覚室しかない5階に昼休みになると生徒の姿はなかった。

彼女がやってきたのは僕がミニトマトを口に放り込んでいる時だった。

「いると思った。」彼女はそう言った。僕は意外だった。僕が昼休みここにいることを知っている人はあまりいない(5時間目の準備にやってくる生物の教師ぐらいだ。その教師はいつも僕のことをそっとしておいてくれる。まるで腫れ物に触らないようにするみたいに。)、そもそも彼女が僕を探しているのも不思議なことだった。

彼女は美人だった。きっと東京に生まれていたら原宿あたりでスカウトされてモデルになっていたとしても不思議でないぐらいに美人だった。だけれど、彼女は東北の三番目に大きな都市の郊外で生まれてしまった。そして中の中のあまりに普通すぎて普通という特徴さえも陰るほどの公立高校に挿した色になっただけだった。

僕と彼女は同じクラスだった。だけれど、彼女と会話をしたことはなかった。

「一緒に旅に行かない?」ただ話しかけられただけで驚いていた僕に彼女はそう続けた。

「たび?」かろうじて出来た僕の返事は彼女の発した単語をただ音としてオウム返しするだけだった。

「そう、旅。」彼女は僕の隣に腰を下ろした。

「なんで?」

「行きたいから。」旅に行きたいから、旅に行く。彼女の回答はシンプルすぎて余計に僕を混乱させた。

「なんで、ぼ、僕と。」ここまで僕は話しかけられながら、本当に彼女は僕に話しかけているのだろうかと疑ってさえいた。

彼女が僕と誰かを間違えているとか、あるいは彼女は僕が作った妄想であるとか、そういった可能性の方が彼女が僕に話しかけ、しかも旅に誘う可能性よりもはるかに高いように思えた。

「原付持ってるから。」

「原付で旅に行くの?」

「そう。」

「いつ?」

「これから。」

「これから?」

「そ。」

旅に行きたいから旅に行く。僕が原付で登校しているから僕と旅に出る。これから、つまりは昼休みの間に旅に出る。

「どこに?」

「知らない。決めない。」彼女は何を当たり前のことを言っているのかと言う風にそう言って笑った。

それから立ち上がると、彼女は廊下を降りていった。「何してるの?早くいこ。」

僕はたちがあって彼女の後を追った。

階段を降りている間も玄関についても彼女は特に何も言わなかった。ただ、彼女は楽しんでいるようだった。口元が緩んで微笑んでいた。彼女が降りていく階段を後ろからついていくと彼女の髪からいい香りが漂ってきた。それはシャンプーの匂いなのか、あるいは彼女特有の香りなのかは僕にはわからなかった。甘くそれでいて爽やかな柑橘のような香りだった。

玄関で外履に履き替えた。昼休みに校内から出ることは禁止されているから、その瞬間を教師に見られてしまったら、僕と彼女の旅は終わってしまう。

だけど、見つからなかった。ただそれだけのことなのに僕には学校さえも「行け。」と言っているような気がした。

鍵がかかっていたドアを開け、僕と彼女は外に出た。いつもは気にならないドアのガラガラと開く音がやたらと大きく響いた。

外は春で暖かかかった。少し歩いただけで汗ばむと言うのに今だに冬仕様のブレザーを着用することを強いてくる高卒に嫌気がさすよほどに暖かかった。

僕は制服のポケットから鍵を取り出し、カバンを持ってきていないことを思い出した。僕が持っているのは制服のポケットに入っていた鍵と財布と携帯と食べかけの弁当だけだ。

彼女もカバンなんて持ていなかった。

僕は原付のエンジンをかけて、そこでやっと、これから僕と彼女がやろうとしていることに対して恐れ始めていた。もちろんそれまでも僕はずっと戸惑っていた。だけれど、その戸惑いはどこか現実感が欠けていた。エンジンの音が僕の戸惑いは現実のことなのだと告げた。

僕は学校から逃げようとしていた。その結果の行き着くところは教師からの指導という名のストレスの発散対象になることと、母と父からの叱責。同級生からの蔑みなどなど。

でも、僕よりも彼女の方が学校に持っているものはたくさんあるように思えた。教師からの信頼も、友達も。旅に出て失うものは僕よりも彼女の方が多いのは明白だった。

僕は今からでも彼女を説得して学校に戻ればいいのだろうか。きっとそうなのだろう。でも、そうではないのだと、僕の中の何かが告げていた。僕の肩に乗った天使と悪魔のような存在が囁いていたのかもしれない。(それが天使なのか悪魔なのか、あるいは両方なのかは僕にはわからない)。

とにかく、僕は何も彼女に言えないでいた。彼女を見ると僕の脳みそは考えることができる量が大幅に減ってしまうようだった。

僕が原付に乗ると彼女が荷台に腰掛けた。いつもそこにはカバンが置いてある。僕はカバンを持ってこなくてよかったと思った。弁当箱をなんとかブレザーのポケットに突っ込み、僕と彼女は校門から学校を出た。

後ろでは昼休みを終えるチャイムの音が響いてきた。

僕と彼女は日常の中の違和感だった。僕と彼女を乗せた原付は、平日昼間の閑静な住宅街の中の県道を走っていた。沿道にはスーツ洋品店があり、学生が帰りに寄ることが多い牛丼チェーンがあり、個人のラーメン屋があった。それからどうやって生計を立てているのかわからない洋服屋があり、蕎麦屋があった。その日常の中にいる腰が曲がった老人も、営業中のような風貌の白い軽自動車から出てくるスーツ姿の男性も、幼稚園児ぐらいの子供の手をひき逆の手には買い物袋を持った若い主婦も、どれもが完結した平日昼間の日常を作っていた。


だけれど僕と彼女は違った。僕と彼女はこの風景の中にあってしては本来そこにいるはずのない違和感だった。高校生が平日の昼間にいるべきなのは高校であって住宅街ではないのだ。

学校を風邪かなんかで早退した時に、校舎の外に出ると感じるような、滑らかな居心地の悪さが僕の心をくすぐった。

だけれど、僕は一人ではなかった。

彼女は校舎を出るとすぐに一言「北に向かって」と言った。だから僕は北に向かった。

どこまでいくのだろうと思った。でもそれを聞くことはなかった。エンジンの音と風の音で僕の声は彼女の耳に届くことは無いだろうし、仮に届いたとしても彼女さえも僕のその質問の答えを持っているようには思えなかった。

街の風景はすぐに郊外のものになった。大型のペットショップと中規模の書店と地元密着型のコンビニエンスストアを越えると何もなくなった。あるのはなんの仕事をしているのかわからない会社の看板が掲げられた掘っ建て小屋と草が高く伸びた荒地、少し行って畑があり少しだけ整備された公園があり川があった。川から先はさらに何もなかった。

2時間ほど走って彼女が僕の背中を叩いた。

「止まって。」と彼女が大声で叫んだ。大声で叫んだ彼女の声は僕の耳にかろうじて届いた。

僕は親指をあげて後ろに合図して、少し先の潰れたコンビニの駐車場に入った。コンビニの窓にはベニア板が張られていた。

「お腹すいたね。」彼女がそう行った。

「どこか食べれるところ探そうか。」僕はそう行って携帯を出した。携帯のスクリーンには知らない番号からの着信と母と父からの着信を告げる通知がびっしりと埋めていた。いつも通知なんて企業からの広告しか入らない僕には意外なことだった。僕は携帯を見たことを後悔した。

「何時?私はもう携帯切ってるから、わからない。」僕は通知の波の上に掲げられた数字を読んだ。「3時25分」そろそろ学校が終わる頃だった。

「少し手前にあったコンビニに戻ってご飯買おうか。」彼女がそう言って僕は頷いて、また原付にまたがった。

僕と彼女が潰れていないコンビニの駐車場でご飯を食べている間も何も会話はしなかった。聞きたいことはたくさんあったし、聞かなくてはいけないこともたくさんあった。だけれど僕の思いはどれも言葉という形に変わることはなかった。思いは言葉に変わることを拒んでさえいるようだった。水が氷にならないようにしているようだった。

それから僕はまた国道を走り続けた。尻が痛くなった。途中でガソリンを入れた。寒くなってきたから少し大きな街にあったファストファッション店でジャンパーを買った。彼女はパーカーを買った。

それから僕と彼女はさらに走り、次に彼女が止めてと行ったのはゴロゴロとした岩場の横だった。彼女はバイクを降りるとテトラポットをよじ登り、海の方に進んだ。

「危ないよ。」という僕の忠告は海の風に流れて彼女の耳に届くことなく消えた。

彼女は岩場の一番高いところにいた。そこは平らになっていて二人が座ることができるぐらいのスペースがあった。

「ここで寝ましょ。」と彼女は言った。「ここなら満潮になっても海水は届かないみたいだし。」

彼女はどうしてそんなことがわかるのだろう。彼女はあるいは海に詳しいのかもしれない。彼女の目は綺麗な海によく似ていた。

こんなゴツゴツしたところで寝れるのだろうかと僕は思った。

体育座りして目をつむると自然と眠気が襲った。今何時なのだろうかと思った。今日は精神的にも肉体的にもそれなりに疲れて一日だった。

少し寝て、そして少し起きて、また寝てを何度か繰り返した。

そして朝日が昇り始めた。彼女は「日の出が嫌いだ」と言った。


帰り道、僕は考えていた。彼女がなぜ僕を誘ったのか。それは原付を持っているからだと言った。だけれど僕以外にも原付で投稿している生徒は数人いた。なぜ彼らではなく僕なのか。あるいは彼女は僕のことが好きで旅に誘ったのかもしれないとも思った。そうであってほしいけれど、それを確認することは僕にはできなかった。

僕は昨日の夜するべきことがあったのかもしれない。でもそれは考えないことにした。考えると抑えることができなくなるのなら考えないようにするのがいい。

彼女はこの旅で何も変わらなかったと言った。この旅で何か変わったのだろうか。何も変わらなかったようにも何かが変わったようにも思えた。

「随分遠くまで来たね。」彼女が後ろでそう呟いたような気がした。

「随分遠くまで来たね。」と僕は心の中で返事した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?