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三代目、店を継ぐ

“町中華以前”と“町中華以降”

創業1956年のことぶき食堂の歴史を語る上で、どこかで区切るとしたら確実にここがボーダーラインになるだろう。

いわゆる、どの町にもあるのだけれど中華料理店と呼ぶには大層な気がする、かといってラーメン屋というにはサイドメニュー多すぎ問題が頭の中でチラつく、お世辞にも見栄えがいいとは言えない店…。 
強いて言うなら“定食屋さん“というくらいのゆるさが丁度良いような、そんなふわふわした謎業態に、ピタリとハマる称号が与えられたのが、ずばり”町中華“というワードであった。

私の知るところではおそらく、北尾トロ氏と下関マグロ氏のおふたりが生みの親であり、「町中華とは何だ」という本の中に、町中華の定義がとてもわかりやすく記されている。(興味ある方はぜひご一読いただきたい!)
我がことぶき食堂も、ありがたいことにご紹介いただいた。

そしてその言葉は、まさに魔法の言葉であった。
『町』と『中華』という、ごく単純なワードの掛け合わせは、まるで昭和のお父さんのちゃぶ台返しばりの勢いで、さまざまなものを一気にひっくり返してしまったように思う。

これ以降、どの町にもあるけど、なんか汚そうだし、常連のおじさんが居座っていて何とも入りにくそうなイメージの店から(ちなみにこれはイメージで、ゲンジツには割と多種多様なお客さんが来てくれてました!)、「町中華でビール飲むって逆にオシャレかも?!」という新たなるカルチャーとして捉える若年層と、チェーン店が増えゆく昨今、昔ながらの定食屋はやっぱり貴重なのでは?!と、やさしい気持ちで応援してくださる中高年層の心に火が灯され、そこから町中華の快進撃が始まったのである!!!(多分)

事実、雑誌にテレビ、WEB、そしてSNSに…と、色々な媒体でご紹介いただくようになり、数年前までは、一生雑誌になんか載るわけない!と誰もが思っていた(自分調べ)、我がことぶき食堂に明らかな変化がもたらされたのだ。
この、”町中華の変“が起きた時は、まだ先代の父も超がつくほど元気であり、しっかりと町中華ブームに乗っかっていた。
有吉ジャポンに出て、有吉さんに突っ込まれる父の人生、誰が想像しただろう。
江口寿史先生が父の作った料理をデッサンしてくれる世界線、誰が予想できただろう。
私としては、ちょっとにわかには信じられない現象だった。

完全に追い風に吹かれた、我が店。
バブルの頃の調子の良さに近しい(またいつか記したいけれども、あの頃は町の食堂だってとんでもなく調子がよかったのだ!)、またはそれ以上の勢いで、店は連日、新旧のお客さまで賑わうようになった。  
憧れのあんな人やこんな人が取材で来てくださったりお客さまとして足を運んでくださったり…、
ここまでは完璧な町中華サクセスストーリーであった。

しかし人生とは、やはりそんなに一筋縄にうまくいくものではなく、まんまと父が倒れた。
体力の衰えを知らず、病気らしい病気をしてこともなく、酒にめっぽう強く、とにかく頑丈だった父が、様子がおかしくなったかなという予兆が現れて病院に駆け込んだ時には、小さな脳梗塞をすでに何ヶ所か起こした後で、そこからは雪崩の如く、あれやこれやと全身の調子が悪くなっていってしまった。
よく考えたら80歳を超えてるので、おかしなことはないものの、私は焦った。ひとり娘として、かなり焦った。介護保険?入院?透析?!と次々と聞き慣れぬワードの羅列に不安が爆発する。
一方、母は元気でまだまだ、父の留守中の店を守り抜く気満々のようだ…。そのやる気も、正直おそろしい…。
当時の私は専業主婦(ちょっとパート)、子どもたちはもうそれなりに大きくなってきてきたし、店を見たらバイトの皆さまが母を支えてがんばってくれている…。

これは……私が……手伝うしかないのか……???

あまり考える間もなく、とりあえず手伝いながら今後のいろんなことを考えよ……そんな弱気な気持ちで、生まれてはじめて厨房で鉄鍋をふるったのが、たぶん約3年ほど前。
絶対に店を継ぐつもりなんてなかったし、たまに手伝うときはホールだった私が…突然の鮮烈な厨房デビュー。
やれるわけないと思っていたけど、不思議なことに、か…体が…動く…!?あれ…これ…もしかして…父が憑依したのかも?!?!と思ったけどその時まだ存命だったので、やっぱり気のせいだった。その昔、タモリさんが料理上手になるコツについて「料理上手の人の動きをひたすら見ること」というようなことをおっしゃっていて、もしやこれがその現象か?!
子どもの頃からずーっと、なんとなーく眺めてた厨房の中で働く父と、それをサポートする母の姿。
脳から消し去りたくても簡単には消えないほど刷り込まれていたようで、面白いほど体が動いた。
(ちなみに家事の中で料理だけは好きだったのと、食品衛生士など必要な資格は持っておりましたのでご安心ください笑)

でも…やっぱり…だからといって決して楽しくはなかった笑!!!

それどころか、痛める肩と腰、増えゆく火傷、ラード臭くなる全身、夏場の灼熱、冬場の底冷え… とんでもない労働環境に、心は折れっぱなし。
そして幾度となく脳裏をかすめる、これ…早く店を畳んだほうがよくない?という思い。

それなのに、なぜか私は未だ厨房の中にいる。

何故なのか。取材していただくこともあり、その度にそれらしい答えで凌いでいたけど、やっぱりまだ実は、自分の中でしっくりくる答えは出ていないでいる。

でも、そんな迷いの中でもお客さまは日々来てくださる。
ラーメンをやめた、チャーハンもレバニラもやめた、営業時間は平日の昼間のみにした!
…もうめちゃくちゃだし、怒って2度と来てくれなくてもおかしくないのに、皆さま、次々きてくださる。
常連さんはもちろん、北は北海道から南は熊本まで…わざわざ東京旅行の中の予定に組み込んでタクシーで駆けつけてくださる方や、修学旅行の工程表に組み込んでくれた男子学生さんたちまで…。

それは単純に嬉しい。とてもとても嬉しい。
美味しかった、とか、また来るね!とか。そういう言葉を聞くだけで心がぽかぽかする。 

そして同時に、とても誇らしい。
こんなにボロボロで駅からも外れたところに佇むなんてことない店が、とにかく誇らしい。
その店を生み出した祖母と、ここまで繋いできてくれた父と母が、ものすごく誇らしい。
ついでに、豚の唐揚げ=ブタカラ、という”超看板ベストセラー珍しメニュー”を40年以上も前に発明した父のことが、世界一誇らしい。

それだけが理由ではないけど、だから私は今日も厨房に立っている。


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