見出し画像

【分析編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

上のNoteを書いてから時間が空いてしまいましたが、その間もけっこう「散歩」について考えていました。
やっぱり、アウトプットすることの一番のメリットは、自分がテーマに対してアンテナを張れること。

ということで、なぜ自分が散歩が苦手なのか、考えられる理由をランダムに挙げます。

【生産性が感じられない】
この期に及んで「生産性」とは……。
書いてて恥ずかしいです。
散歩の醍醐味を知っている方からすれば浅はかの極み。
これまで、目の前の仕事だけをこなし、目に見える成果ばかりで価値を評価してきた、世知辛い人生だった証でしょう。
突きつけられますね、この年になって。
今までの価値観では測れないものを今、目の前に提示され「さあ、どうする?」とひらひらされている気が。
そうなんです、まさにここ、
無形のものを味わえる自分にグレードアップしたいのです……。

【本が読めない】
活字を追うのが生きがいの私は、端的に、歩いている間は字が追えない、それが苦痛なのだと痛感します。
オーディブルで文学作品を楽しむという方法もありますが、個人的には文学作品はやはり活字で読みたいんですね。
著者と私の間に、誰かほかの人の声が入ってしまうことで確実に失われてしまうものがあるように感じるからでしょうか。(高橋一生さんの「騎士団長殺し」はちょっと聞いてみたいけれど。)
あと、字の配列や漢字と大和言葉の醸し出すそれぞれの雰囲気を味わいたいし、もっと言えば、作家とともにふと空を見上げて、この人が紡ぎだした風景をしばし一緒に見ていたい。
オーディオブックではそこが「おっとっとっと」となってしまい、心が文章に追いつかないんですね。
その点、Voicyなどの一人語り的音声コンテンツは、発信者の声がそのまま活き活きと聴けるので、愛してやみません。

【自分という媒体に価値が感じられていない】
これは自分に対して爆弾発言。
でもあえて言う。

そう、私は私といるのがけっこう退屈なんでしょうね。
自分の五感を通して感じたことにも、そこまで価値が感じられていない。
ただ、結局生きていく唯一の同胞は自分自身なのだから、これはすっごく哀しいことですね。ぜひとも関係改善したいです。

【水がない】
幼いころから、すぐそばに川のある風景に育ったので、地図に「川」とあって行ってみても、灼熱の日差しのもと大理石がゴロゴロしている干上がった川底を歩くしかないこの国(南部)では、散歩に出て流れる水を目にする機会はほぼまずありません。
ああ、ちょっと街に出れば、滔々と流れる川があったあの日々、なんと豊かだったんでしょう。
鴨川、高瀬川、桂川、猪名川、木津川、淀川……。
こればっかりは、いくら生き方を変えても、すむ場所を変えない限り手に入れられるものではないので、せめて自分のハンドルネームを木から水にかえようかしら。

【自意識過剰】
どんなに言葉を覚え、同じ土地に長く住んでも、一歩外に出れば「自分は外国人」という自意識がある。
無ければいいなと思いますが、これは確かにあると思います。

良くも悪くも、いつもどこかで心に鎧を着て、生きているのでしょう。
それをプラスでもマイナスでもなく、まったくの中庸に捉えられるようになりたい。
そのためには、自分がまず、世界を中庸に捉えるようにならないといけない。
なぜなら、生きる環境は、自分自身の内奥世界の反映にしか過ぎないから……となってくると、もう仏教ですね。
散歩ひとつとっても、なかなか深くなってきました……。

次回は、そうはいってもやっぱり「散歩が大好き」と言えるようになりたいという野望をかなえるべく、解決へのアプローチをなんとか試みたいと思います。

もしいい方法をご存知だったら、ぜひ教えてください。

この記事が参加している募集

習慣にしていること

散歩日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?