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物語が生まれるとき

ひとすじの光がはらりと雲間からこぼれるおちるように、物語は、思いがけない角度から、なんの前触れもなくやってくる。

ああ、今回は、ここに来るまでがどれだけ長かっただろう。
いったい何人の人に、何枚の紙に、愚痴と絶望を語り書きつけてきただろう。

聞き役は「知らんがな」一択で終わるべきこれらの愚痴は、もちろん社会的つながりの相手に言えるわけもなく、数限られた話せる相手も、誰ひとりとして私の文言をまともに受け取らないというのが大前提。コーヒー奢るからおいでよ、という釣り文句でしぶしぶ時間をつぶしにやってきた相手に、『書けない。書けない。書けない。書けない』と危ない人のように体を揺すりながらぶつぶつ言っていても、基本的に「あーはいはい」ですましてくれないと困る。

文言も発展して『書けない人生なんて生きる意味もない。それはまるで、クリープのないコーヒーのよう』といえば、たいていクリープの方の説明を求められる。
また、そうでないと困る。

<ちなみに、確かこれは私が子供だった80年代のクリープのコ―マーシャル(今でもあるのかな?)で、「クリープのない人生なんて、星のない夜空のよう」とかなんとかいう科白だった記憶がある。覚えている人がいたら教えてください。『星のない夜空』という例えがそもそもおかしいとたまに突っ込まれた。素粒子工学的に見て、星と夜空は…云云かんぬん以下省略。>

で、ついに今朝は朝食の席で家人に、
「こんなに日々懊悩呻吟して、死ぬような思いをしてたとえば小説がひとつ書けたとして、ひっくりかえっても私にプルーストのようなものは書けない。後世の誰ひとりとして読まない。どんだけがんばっても、ジョー・ネスボが関の山」というと、「だまって地獄に堕ちる?」と極上の微笑みとコーヒーのおかわりをくれた。
その通りだと思う。
(私はスティーブン・キングは深く敬愛しているので、ぜったいにこういう文脈では出しません。彼にしか動かせない心の部分が確実にあって、そこが動いたときのあの感覚といったら…。それにしても、ジョー・ネスボさん、ごめんなさい。)

というわけで、周囲に絶望オーラをまき散らし、ここ数か月苦しんできたのだが、そんな私に今朝、ふらっと『その人』はやってきた。
ほんとうになんの前触れもなく。
ただ光のように。

今回、訪れてくれたその人は、いつにもまして影の薄い、とても控えめな人のようなので、私もほんとうに心して、少しずつ少しずつ彼女を知っていこうと思う。

きっと、そう長くはない時間のあとに、彼女はまたふっと光のように去っていってしまうのだろう。面影が砂糖菓子のようにはかない。たぶんものすごく生活に困って、そんな生活があまりにも長く続いて、それにだんだん慣れてしまううちに、体のほうが徐々に透きとおってしまったような、そんな感じ。
だから私は、限られた彼女との時間を、ほんとうに大切にしないといけないんだ。

彼女の名をまだつけずにいようと思う。
名前をつけたら、そのことを恥じて、ぽっと頬を染めて消えてしまいそうな人だから。

物語が生まれるとき。
まだその名を知らないけれど、私はあなたに逢えてよかった。

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