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棺桶とエレベーター


今日はとても不謹慎な話になると思う。
だから、不謹慎な話が苦手、あるいは許せない、という方は、
どうぞ、そっとページを閉じてくださいね……

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私の住んでいるマンションの一階上に、それはそれは太ったおじさんが住んでいる。
日本人の常識では、ちょっとうまく想像できないかもしれないぐらい太っている。
西洋人としては、けっしてあり得ない体型ではないのだけれど、ベルトの上に何重にも盛り上がった肉の付き方とか、いったい誰が仕立てるんだろうと思うような幅広のズボンとか、もし許されるなら、まじまじと観察して、いろいろ質問もしてみたいのだけれど、狭いエレベーターで一緒になってそんなことを聞くわけにもいかず、開いたエレベーターの中におじさんがいると、多少の緊張を隠してせいいっぱいほほ笑んだあとは、ひたすら体を小さくしている。
これは比喩ではなくて、文字通り、こちらが小さくならないと乗っていられないのである。

この太ったおじさんには、太ったおばさんという配偶者がいて、このおばさんはわりと陽気な性格で人種差別もしないので、エレベーターで一緒になるたびに、膝が痛いだの年金がへっただの、孫が生意気だの、一分に満たない滞在時間で感心するほど赤裸々に悩みを話してくれるのだが、そのおばさんによると、太ったおじさんは定年退職するまで、大手の旅行代理店のお偉いさんだったらしい。
マンションのどの住人に対しても、あまり目を合わせない態度や、必要最低限のことしか言わないのに滲み出る尊大っぷりは、そういうところから来ているのかもしれない。
きっと私なんて、アジアの猿かボウフラぐらいに思われているだろう。
まあ一言でいうと「周りの人間、みんなバカ」と額に書いてあるタイプで、そしてそれはそれで、まったくもってかまわない。

ここからが不謹慎な話の本題になるのだが、この不愛想で太ったおじさんについて、私はとても心配していることがある。

それは、いつか年月が過ぎて、このおじさんが亡くなったら、いったい誰が、どうやって階下に運ぶのだろう? ということだ。

よけいなお世話だ、と言われればそれまでなのだが、それにしても誰かが運ばねばなるまい。
気のいいおばさん一人に背負わせるには、文字通り、重すぎる。

いくらお金を払えば大抵の仕事は引き受けてくれる、移民活躍社会とはいえ、まさかこの巨体を背負って痩せ細った移民の人々に階段を行かせるのは危険すぎるし、だいたい今の時代に、死体を背負うというレ・ミゼラブル状態が許されるのだろうか。

まさかピアノを運び込むときのように、クレーンかなにかを使って、窓から横にしたまま吊って運ぶわけにもいくまい。途中で回転とかしてしまったら、それこそ不謹慎だ。

一番常識的なやり方として、棺桶を使うというのが考えられるが、棺桶に収めたあと、うちのエレベーターでは、棺桶は横にしては運べない。
では、縦にして運ぶのだろうか。
そうなると、棺桶に中にベルトなどをつけて、倒れないように体を固定して、数人で運ぶのだろうか。

これについては、別件で何年か前、「『棺桶ベッド』という商品を開発したら、需要があるのではないか?」と夫に提案し無視された。
どうせ死んで棺桶に入るのなら、生きてるうちからそこに入って日々眠っていれば、そのまま死んでも周りの人によけいな手間をかけなくていいのでは? と思ったのだが、冷静に考えれば、湯灌とかその他もろもろの儀式とか、確かに実際的ではないかもしれない。
ということで今も要・考察案件となっている。

エレベーターに話を戻す。
そういえば、ヨーロッパにはまだ、自動扉の代わりに鉄条網がついたまま、ドアなしで上下する化け物のようなエレベーターのついた建物がたくさんあって、そこにもお年寄りがたくさん暮らしているが、いったいみんな、いざというときのことはどう考えているのだろう?

とか、とか。
そんな具体的な問題を考えながら、今日もエレベーターで太ったおじさんに会う。
なんて失礼なことを、と自分の思考を責めつつ、むこうの愛想のなさで罪悪感を相殺して、今日もこんにちは、という。
いつも間断なく不機嫌な表情のおじさんだけれど、そんなおじさんの一日がいいものになるといいな、と思いながら。

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