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エポケーしよう。

いただいたコメントから着想を得て、以前に書いた記事にもうすこし向かいあってみたくなった。

それは「エポケー(判断留保)」について。
日本語教育を勉強する中で古代ギリシャのこの一語に出逢い、ひとり「おおーっ!」となっていた夏の日の記事。

古代に存在したとされる「エポケ έποχή」。
直訳すると「判断留保」。

目の前で織りなす物事に、即座に是か非かで答えるのではなく、そこまでにいたるまでの過程や文脈を考える、そういう時間をとりますよ、ということなのではないか、と思う。

おんなじことをするにしても、「…ちょっと、わからないな」や「判断できない」だと、どこか受け身だが、「いったん判断を留保して考えよう」だったら能動的で、結論を急がず向かいあうという意思を感じさせる、なかなかすてきな言葉ではないだろうか。

日本を離れてもう二十年近くになるので、感覚も曖昧だけど、日本にいたころはよく
「こんなことがあった。さあ、あなたの意見はAか、Bか。」
と、どちらかの意見を求められることが多かったように思う。
あるいは、私が自ら好んでそういう渦に飛びこんでいたのかもしれない。
ただ単に、若かったのかもしれない。
懐かしい…。

それが年なのか、別天地に来たからなのか、いろんな出来事には、そのうん十倍ぐらいの長さと質量の「背景」がついていることを肌感覚で感じるようになって、「今の出来事」に対してちょっとやそっとでは軽く口が開けない、そういう状況にであうことが多くなった。

私は歴史学も社会学もちゃんと勉強していないのだが、日本が島国であることと、江戸300年の鎖国は、私たち日本人のメンタリティーに大きく影響していると思う。

何百年もの間、自分たちの文脈、その独自性の中だけで判断できてこれた、ということは、ひるがえって、多様性の求められる現代のグローバルな世界では、かなりハンディを負ったスタートであるはずだ。
竹槍で戦艦軍隊を倒そうとするぐらいに。
ここは自覚しておいた方がいい。

(多様性はそんな甘い世界じゃない、という意味で。だから『自分たちは自分たちのジャングルで一生を終えるんです、それでいいんです』という選択をする人がいることも責められない。その一生がどういう一生になるかは別にして。)

物事を即座に是か非で答えてしまう姿勢は、自分がその背景をすでに考えつくしている場合は別として、そういう背景に思いを馳せることができない、あるいは脈々と続く背景があることすらも知らない、つまり『私はちょっと恥ずかしい人間なんです』という事実を露呈させてしまうことにもなる。

日本にも「一筋縄ではいかない」とか「清濁あわせ呑む」とか含蓄深い言葉は多いのに、どうしてだろう、なんというかな、スケールが違うんだな。良くも悪くも。
こっちの「清濁」の濁なんて、もうとんでもない濁であったりするから。
それでも呑みこめる人がいる。
でもって、そういう土地から沁みでてくる清は、もう表現しようのないほどの清であったりもする。

とはいえ、日本にも、たまに突然変異のように器の大きい、スケールのでかい人物は出てきていて、その後の世界に影響を与えたりしている史実もあるので、やっぱり人間はすごいし、おもしろいし、歴史は深い。
最終的には、地下水脈のようなところでみんなつながっているのかな、とすら思える。

というわけで、今日も時間切れで中途半端ですが、ひとつの思考過程としてポストしよう。
エポケー。

エポケーする。
これ、ちょっと流行るといいな♪
みんなでエポケーしたら、ちょっとだけ、人生が深く、おもしろくなる気がしませんか。

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