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遺さないという愛ー「君たちはどう生きるか」の主観的感想にかえて。

言葉にしなければ、しないだけ、
言葉は錆びつき、記憶は薄れていく。

やっと二月に公開されて、先日観にいった「君たちはどう生きるか」。
感動はすこしも薄れていないのに、
時間は恐ろしいほどの勢いで記憶をこそぎ取っていく。

だから今、どんなに言葉足らずでも、ここに記そうと思う。

先立って、ある古いYoutubeを見た。
その中で宮崎駿さんが言っていたことのひとつの答えが、
「君たちはどう生きるか」だったのではないかと感じている。

Youtubeの中で語られていた、
やっていけなくなりますよ。
もういいんですよ。
という宮崎さんの言葉。

映画を観た時、打ち倒されそうになったのは、あの時の答えが、こんなにも愛にあふれた形で描かれ、届けられたことへの衝撃だった。
その深いメッセージとともに、
思いを形にできるという才能を、力を、まざまざと見たことの感動が強すぎて、みぞおちのあたりがずきずきと痛んだ。
いまだ言葉にできない。
壊すということで、愛を伝えてくれた人を、私はあまり知らないから。

みんな、言う。
続けよ、生きよ、できるだけ長く、できるだけ永く。
続くことが良くて、壊れないことが良くて、
終わらないことが良くて、変わらないことが良くて、
それをすべての前提にして。

でも、そもそも、
それは生きるという現象とは真逆のベクトルなのだと、
いったい何人の人が実際に目の前で見せて、教えてくれただろう。
全ては諸行無常であると、はるか昔に先哲が説いたのに、
すこしも耳を傾けず、ずっと私たちは生きてきた。
そして今もそうして生きている。

現実の次元でみても、ジブリという場所は、ひとつの時代を創った夢の工場だった。
事業上の事情をわかる立場に私はまったくいないけれど、
そこにひとつの場があることで、多くの夢が生み出され、育まれ、縛られ、続いてきた。
それを壊すことは、大きな喪失であると同時に、
解き放たれる自由でもあった。

生きるということが、変わること、創るというということであるならば、
過去の遺産を引き継ぎ苦しむよりも、
いっそ何もない更地に素足で立って、またなにかを創り上げる。
だって生きる意味は、創り上げた城にではなく、
創り上げるという作業そのものにあるのだから。

眞人は叔父さんの建てた世界を引き継がないという選択をし、
それを祝福するように映画が描かれ、終わった時、
この人は信じているからこそ、壊せたのだと思った。
私たちはこう生きた。
さあ、君たちはどう生きるか。

愛する者に引き継がせないということ。
愛する者の創造を願うということ。
あとに何も残さないということにこれほどの愛を感じたのは、
後にも先にも初めてだった。

だから、なにもないこの場所で感動は続いている。
言語化は全く追いついていないけど、
感動の前にはそんなことはどうでもよくて、
ただ受け取ったということを書いておこうと思った。
自分自身のために。
忘れないように。

同じ時代に、この作品を見せてもらえた感動に、
どう応えていけばいいのか。

私もはたらきたい。
私も創りたい。
私も生きたい。


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