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【仕事編・テレアポインター 話が聞こえない】 0ポイントと出会う旅

人との関係に苦痛を感じていたわたしは、
(集団生活が始まった保育園の時から「馴染めない」が発生していた)
じゃ、電話はどうだろう、と思いついた。

電話の仕事は2回。
・あるソフト開発販売の企業の問い合わせ電話を受ける仕事。
・ひとつは電話代行サービス。留守がちな社長さんの秘書の体で電話を受ける。実際にはそこに居ない。何社も請け負っている。

直接、先方と顔を合わせることはない。電話だけで済む。
「馴染めない」わたしにとって、馴染まなくていいことが負担の軽減になるかと思い、電話の仕事を選んだはずだったが、
なんと、負担が増したのである。

見えないこと、が、逆に負荷になった。

相手から自分が見えないということは、わたしからも相手が見えないということであった。
当時この自覚はなかったが、わたしは情報を拾いやすく、役に立つ立たない関係なく無意識に周囲の情報を拾っている。
情報の拾いやすさという度合いと、拾っている場所・焦点が他の人と違うために、同じ場所に立っていても見えているものが違うという面があるらしいことが、ここ数年で徐々にわかってきた。
人との拾いやすさの違いにまだ気がついていない時期だったから、なぜ自分だけが疲れているのだろう、と不思議に思っていた。

気がつくと、行動に移っていた。
「気がつく」「気が回る」と重宝されることもあれば、「今それやらなくていい」と疎ましがられることもある。

そして、大半は、誰にも気がつかれない。気にもされない。

誰にも気がつかれもしないことを、「気がつく」というだけで行動に移ってしまう。
評価につながらないし、なんだったら「よくわからない人」という印象を持たれがちであった。

ただ、わたし自身は、「気がつく」ことをより良い方向へ行動していくことは、わたしにとっての「当たり前」だった。行動に移ることを止める意味がわからない。
だから常に、ちょっと、浮いた存在だったかもしれない。
自分に素直であれば、なんだか、ちょっと浮いちゃっている、という。

ところが、電話の仕事では、相手が見えないということは、相手から得られるはずの情報がない、ということ。
例えば、顔は笑顔なのに声は冷静、ということもあるだろうし、声は怒っているようだけど実は急ぎの仕事を手元でやっている最中の人かもしれない。
電話をかけてくる前に、なにか大きな失敗をして必要に迫られて嫌々電話をしてきたかもしれない。

なにより、不思議なんだけど、相手の人のことがわからない(最低限どんな顔をしているか、どんな場所からかけていているか)と、相手の話の内容が入ってこなかった。

電話で話ができることは経験で知っている。
知り合いとであれば会話できる。
だけど、初めましての人と電話で会話することが、わたしには難しかったのである。
自分でビックリ。
話を聞くだけなら、初対面の人でもできると思っていた。
むしろ、いろんな気を使わなくていいから楽だろうと思っていた。

だが、相手の話が聞こえないのである。
正確には、耳の器官は音を聞き取っているけれど、内容が想像できないのだ。

つまり、人が当たり前に使う用語を並べれば、内容がわかる、というのは、
わたしには通用しなかったのである。

以前に、「高架下」が聞こえなかった経験を書いた。
高架下の経験がわたしになかったからだ。
そして、相手は、知り合って間もない人、その上好意を抱いているから緊張を伴う相手だったこと。

電話での仕事はこの状況と似ていた。
相手の文脈がわたしの中にないと、話が聞こえない。
もしくは、相手を見て受け取る情報から相手の文脈を想像できないと、話が聞こえない。

逆に言えば、相手の文脈がわからないから、相手をみて拾える情報を拾っていく、ということを普段はしているのかもしれない。
それは、「集団の輪っか」に寄せていこうとしていた経験と似ている。
自分の中にない。
だけれども自分以外の人は当たり前に居られている。
その根拠はなに?

この「根拠はなに?」の在処を、探っているコストが日常でかかっている。

電話での仕事は、相手が見えないことで、普段当たり前にやっているコストを上回る負荷がかかっていて、もう、闇雲に大変だった。

だが、電話の仕事を2回もチャレンジしているから、人と直に関わらないで済むことが他の仕事に比べて自分の負担を減らしてくれるかもしれない、という期待を持っていたことは、わかる。

残念でしたーー。
逆でしたーーー。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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