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母親の不在ー『生きるぼくら』(原田マハ)ー

東山魁夷さんの作品が使用されたカバーに心惹かれて購入。
原田マハさんの作品は、その多くがアートに満ちている。
本を読み終えて、ほんものの絵を生で観たいと感じる人も多いはず。
マハさんの作品を通じて、もっとアートを身近なものとして触れる人が増えたら嬉しい。

※ここから作品の核心・結末に触れる内容になります。未読の方や読みたくない方はご注意ください※

①作品全体の感想

マハさんの作品はいつもじんわり涙が出るので、あまり外で読みたくない。
が、読み始めると先が気になって止められない。困る。
この日も、時間が空いたら読む用に文庫本を鞄に入れたら最後、読み切るまで落ち着かなくなり結局カフェで一気読みしてしまった。

この作品は実に多くの社会問題を、さらりと取り上げている。
引きこもり。
いじめ。
低賃金の長時間労働。
認知症。
第一次産業の人手不足。
過疎化。
就職難。
地方の高齢化。
どれか一つのテーマに絞っても一冊の本が書き上がるものばかり。
それを深刻になりすぎず、物語の背景としてごくごく自然に登場させるの手腕がすごい。
出版されたのは2012年。
4年間引きこもっていた人生が使っているのはガラケーだろう。
スマホへの移行が加速した頃の物語。
10年以上経った今も、取り上げられた問題は解決どころかより深くなっている。
そんな中でも、人とひと同士の繋がりがあれば、困難を超えていける。必要なものはインターネットやケータイではなく、生身の自分でひとつひとつの課題にぶつかっていくこと。誰かを頼る勇気を持つこと。目の前のことに、真摯に取り組むこと。
何歳になっても重要であろうことが惜しみなく書かれている。そんな本だった。
いつか長野県立美術館にある東山魁夷館へ、マーサと人生とつぼみが生の絵を観に行く場面を想像する。物語の先で実現していることを願う。

②不在の母親の視線

静かな感動と共に読み終えた後、もうひとつ強く心に残ったのは人生の母親の存在だ。
この母親は実際に登場することはない。
部屋に置かれた書き置きや、人生の記憶の回想でのみ登場する。
物語の最後にようやく電話が通じるが、実際に再会する場面は描かれずに終わる。
当然、物語の中心にはいないように見える。この作品を主に動かしている人物は他に何人も登場し、その人物たちを追っている時は母親のことは頭の中から消えている。

それでも私は、読み終わった後に人生の母親の気持ちを考えずにいられない。
自分自身が親になって以降、どんな物語も母親目線で見ずにはいられないからだ。
もし自分が二十代の時にこれを読んでいれば、私は人生やつぼみの視点でのみ物語を生きただろう。

まず自分の息子を置いて出ていくという選択。
これは相当に勇気のいる決断だったはずだ。
毎日毎日の長時間労働、先の見えない息子の引きこもりに疲れ果てたとはいえ。何歳になっても親にとって子どもは子どもでしかない。置いて家を出るのは身を切るような思いだったと想像できる。

その選択が取れた背景に、物語に何度も登場する年賀状がある。
この年賀状がマーサの名前を使った人生の父親によって書かれたものだと、人生たちが気づくのは最後の最後だ。
人生の母親は、年賀状を受け取った時点でその正体に気づいていたのではないか。
別れて何年も経ったとはいえ、その字体や文章で元夫の書いたものだと気づいていた可能性は高い。
文章には「あなたと人生にもう一度会いたい」と書かれている。死ぬ前にもう一度、息子だけではなく元妻にも会いたいという強いメッセージ。
日々の生活に、長野まで行くゆとりなどなかっただろう。実際に会うことは叶わなかったが、母親はマーサと共にいるであろう元夫へ、人生のことを託すつもりで年賀状をとっておいた。自分だけではどうにもならないことを、もう一人の親の存在を頼ってみようとしたのではないか。
そう考えると、人生を置いて別の地へ行くことができたのも合点がいく。
そうでなければ、買い物するために外に出ることすら困難な息子をひとり残していく選択には踏み切れなかったはずだ。

この作品は人生とつぼみが生きる力を取り戻す物語であり、他方で、人生が母親を取り戻す物語でもある。
不在になったことで初めて母親と向き合うことができた人生だが、同時に母親の方も息子から離れることで彼を取り戻すことができたのだろう。

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