見出し画像

生きているうちしか話せない『猫を棄てる 父親について語るとき(村上春樹)』

自分が歳をとったのだから、親も歳をとるはずだ。
子供の時は特に考えなかったけれど、親はかなりの高確率で自分より先に死ぬ。
そして、何か聞きたいことがあるなら、何か話したいことがあるなら、親が元気で生きている時にしかチャンスはないのだ。

私の祖母はもう何年も認知症を患って施設にいる。
もう普通に会話することは望めない。
私の母はそれをどう思っているのか、胸の内を聞いたことはまだない。
母も70代が近い。
母の若い頃のこと、私が生まれた頃のこと、ぽつぽつとは聞いたことがある。
だけど、もっと母の話を聞きたい。今のうちに。どう切り出せばいいかわからないけれど、普段は面倒くさかったり恥ずかしかったりしてそんな会話は到底できないけれど。

生きていても、体と頭が元気でなければ会話はできない。
死んでしまったら、もう何も聞けない。

この本を読んでまず痛烈に感じたのはそういうことだ。
村上春樹さんが本の中で書かれているように、私もまた様々な偶然が折り重なり偶々ここに存在する一滴の雨粒だ。
意思を持つ、でも交換可能な一滴。
私が生まれなかった可能性など幾万もある。
もし私がいなければ、夫と出会うことも子供たちと出会うこともなかった。
どんどん思考を掘り下げていくと、自分の存在が宙に浮いてだんだんと霞んでくる。
それでもここにこうして生きているのだから、残りの時間を自分の思うように全うしたいと腹の底から何かがこみ上げる。

母の存在が疎ましい時期もあった。
今でも時には喧嘩のようなことをする。
それでも、振り返れば自分が若い頃は母もまた若かったのだと気づける。
私が10代の頃、母は今の私くらいの年齢だったのだ。その事実は、過去の母のことばを許せなくとも受け入れることができるようにしてくれた。

病気をしてお酒は飲めない母だけれど、健康に何でも食事できる今のうちに、2人でゆっくりどこか静かな場所で美味しいものを食べたい。
そして、できるだけ長く母の話を聞こう。

村上春樹さんの父親の話を読み、本を閉じた後に浮かぶのは自分の母親のことばかりだった。
きっとこれはそういう本なのだと思う。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?