見出し画像

「私」と「私の身体」の意見は必ずしも一致しない

スマートフォンを修理に出していた時、代替機をお借りしていたのだが。

機能はほぼ同じ。
でも、 いつも使っていた自分のスマホが、傍らにないだけで、 なーんか、落ち着かなかった。

――スマホですら、そうなのだ。


自分の身体の「代替機」はない。
自分の身体は、この世に二つと存在し得ない。

たとえば甘いもの。

精神的には、すごく求めている。
摂取すれば「幸せ~」と心が叫んでいる。

しかし、
カラダ的には、「これ以上大量に食うな。気持ち悪くなる。」 と声を上げていたりする。

つまり、「私」と「私のカラダ」の意見は、必ずしも一致しない、ということだ。

こんな時、自分のこのカラダは、 「=今だけ差し当たって自分の管理下のもの」ではあるが、「=自分」ではないのかも?と、 よく思う。
更には、「=一時的にお借りできているだけのもの」という感じもまたする。
(即ちその「一時」は私の一生と同じ長さになるはずである。)


あるいは、先日の頭痛。

熱はないけど風邪の初期なのか、いや、酸欠とか、あるいは肩こりや眼精疲労から来る片頭痛的なものなのか、はたまたそうではなく、カフェイン離脱頭痛(つい何杯もコーヒーを飲んでしまった二日後くらいに自分は起こることがある。なので普段は飲みたくてもコーヒーなら午前中1杯までと決めている。)なのか、――うーん、それすらも、自分で結局最後までよくわからなかった。(そのうち頭痛のほうが勝手に治ってくれた。)

常に使わせてもらっている自分のこの身体のことなのに、「わからないこと」は結構、(それも常々)多いのだ。


大体、自分自身を「一生涯」乗っける大切な「乗り物」の割に、 自分の身体のその中身のことなんて、ほとんど知らない。
臓器は何と何と何が入ってそれぞれどう機能しているんだったか、とか、 脳みそはどういう成分で作られているのか、 とか。
調べりゃわかる事すら、 把握しきれてはいない。
(というか、ちゃんと自分で知ろうとしていない。)

そうそう、以前に書いたこの記事で一番言いたかったことを、書き忘れた気がする。

すべてのカタチあるものは、必ず「古びる」という過程を辿る。
「経年劣化」しないものはこの世界にはないのだ。
(スマホとか、またはパソコンでも家電でも、そういうものなら、数年使っているうちにその「寿命」というものも、如実に感じやすいものだろう。――そしてそれは、よくよく考えると、「すべてのカタチあるもの」に、当てはまることなのである。)

だから、すべてのものは、「留めておく」のでも「そのままのカタチでとっておく」のでもなく(何故なら事実上それらは不可能だからだ)、大切にはしながら、でも「使う」「使い切る」という意識が大事なのだろう、ということを、私は最も書いておきたかったのだ。

言いかえるとこれは、所持しているだけで既に「使わせてもらっている」という意識を持つ、ということなのかもしれない。
「何かを私が所有している」ということは、その時点で既に、その「モノ」の「生命」「寿命」を、この私自身が預かっているということであり、ならば、「カタチあるものならば避けられない経年劣化」それも含めて、(実際的使用の有無にかかわらず)「私が使用している」ということになるのである。



中でも、「当たり前に私が所持しているもの」や「当たり前にそこにあるもの」ほどありがたいものはないはずなのだが――どうも当たり前になりすぎると、「使えるのは当然でしょ?」となりがちだったりもする。

例えば、あたかもまるで当たり前であるかのように「地面」はそこにある。
しかし、それは別に当たり前ではない。――偶々「このような地面」がある星に、生物として生まれついただけの話だ、既に。
で、これは自分の身体についても言える話のはずなのである。
というか、地面は地面でも、自分の家の敷地にわざわざ「良くないもの」をばら撒いたりする人はは少ないはずである。
で、あるのにもかかわらず、明らかに地面以上にちかしい「自分の身体」については何故か更に無頓着で、人間は、即死せぬものならと毒をばら撒いたりもするし、あるいは、酷使してダメにしたりも平気でするのである。
――いや、ただただ「不思議よねえ」という感想しか出てこない。(自分のこれまでを省みてあきれるばかり、という感じである。笑)

言うなれば殊更、そういう当たり前すぎるくらい当たり前のものほど(使用頻度も高いわけだから)大切にすべきなのになあ。――どうもそういうものに限って、「使えることに慣れ過ぎて」常日頃より大切に使っていなかったり、ということも、私にはおこりがち、ということである。

いや、「明確に数字で表せるような高価なもの」であれば、むしろ意識しやすいわけであるからして、案外そうでもないのかもしれないけれど?
(それは「買い替えることになったら大変な出費だよ!」などとハッキリとイメージしやすいもののことだ。――スマホとかなら、うっかり落としたその瞬間いつも凍り付くものね。笑)
しかし、「明確に数字で表せられないほどに高価なもの」いや「お金では買うこともまたできないもの」に限って、何故か、ついつい、大切に使う意識が希薄になったりしてしまう。

どうしたものだろう。

例えば。

この自分の身体を養うために、食費だけでも、一体どれくらいの金額をここまでにかけたであろう?(無論、それ以外にもいろいろかかる。)
そして、いやいや、そもそも「買い替え」できないものなんですけど?
「代替機」を借りるわけにもいかないでしょ?

どうしてだ?

どうしてそんなに、常日頃から「無意識」なのだ??

どうして、も~っと、大切にしないのだ???

と、自分に問い直す、50歳、2023年の暮れなのである。(笑)