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散文┃書くこと

何かを書くこと。noteを始めるにあたって、いやもっと前、記者に憧れを抱いてからじっくり考えてみたかったテーマです。

一様に「書く」と言っても、作文だったり日記だったり手紙だったりとその形は多種多様。まず私はそれらを2種類に分けて捉えています。単純に自分のためだけに書くものか否か。もっと言うと他人に見せるかどうかのラインで私の「書く」は随分変わります。

自分のためだけに書くこととはつまり日記になりますが、私は一日でも欠かすと折れてしまう残念な完璧主義者なので、毎日書くよう自分に強いるような事はしません。その代わり、いつでも書きたい時に好きな事を書く「自由帳」を一冊作っています。と言えば聞こえは良いけど、まあ続かなかった日記の成れ果ての姿ですね。「これはどうしても記録せねば」という私的大事件があった時、感情の整理をしたい時、あとはふと思い立った時にそのノートを開いて0.3mmのほっそいボールペンでつらつらと文字を書き始めます。それはおよそ文章と呼べるものではなくて、思考をそのまま可視化しているだけの作業。だから見返すと「えっと」とか「うーん」とか間投詞まで書いてあって間抜けなものが多い。

しかし、この自由帳は私のメンタル維持において間違いなく重役を担ってくれています。わりと気分の浮き沈みが激しい私は、誰かに話すよりも先ずノートに思ったことを全部ぶちまけてみます。そうすると大概書いてる途中に話が脱線して「あれ何で辛かったんだっけ」と勝手にスッキリするんです。きっと無心に何かを書く時間が一種の瞑想のような効果をもたらしているのでしょう。また私にとって話すより書く方が楽であるのは、書いている時の方が何倍も饒舌なので実感しています。たまに手の方が追いつかない時だってある程、自分のためだけに書く時間は好きなんです。


一方で、書いたものを誰かに見せるとなるとそれが一気に苦痛に変わります。小学生の頃から授業中に書かされる作文や感想文は大の苦手でした。上手いか下手かの問題ではなくて、決められたテーマで時間内に文章を書くという過程が大嫌い。まず書き始めが分からないし、そもそも書く内容が浮かんでこない。しかもそれで優劣を評価されるなんてたまったもんじゃない。周りの子が何食わぬ顔で筆を進めるのを見て焦って更に集中出来なくなります。それが毎度起こる訳だから、いつしか私には書く才能がないんだと思うようになりました。目の前の文章を書くことよりも、それを読む先生や友達の顔が思い浮かんでしまって消しカスだけが増えていく机上。

そんな私も受験期でビシバシ鍛えられて、何とか型にハマったその場限りの文章なら少しは書けるようになりました。けどそんなの全く面白くないから忌避して然るべし。ようやく受験から解放されたと思ったのも束の間、大学に入ると今度はレポートというものを書かなくてはならなくなりました。しかも英語で。これまたLv.1の勇者に魔王と戦えと言っているようなもので、技術も経験もない私は翻訳というチートを使ってなんとかここまで騙し騙しやってきました。

今でも誰かに見せる前提で書こうとすると急に手が強ばってしまいます。結果、(知らない人の電話に出る時に声がワントーン上がるみたいに)よそよそしい歪な文章しか書けなくなります。自分のベストを尽くして書いたはずの文章が酷く拙く味気ないものに見えてげんなりすることもしょっちゅう。


それでも最近ひとつ新しい発見がありました。noteで書いた旅行日記に貰った感想で、私の文章は「いつも締めが前向きだから読んでて明るい気持ちになる」と言われたのです。これは意外。と言うのも私はドーナツの穴を見るような悲観人間だから、勝手に文章にもネガティブ思考が漏れていると思っていた (こんなことを書いている時点で後ろ向きな)んです。けど確かに無意識にハッピーエンドで括っている節があるし、それで誰かにポジティブな影響があるなら願ってもないことだなあと思いました。ただ文章だけが私から離れて独り歩きしているようでもどかしさも多少あるけど。

そんな感じで、noteでは「誰かに見せるために」書くこととこうやって「自分のために」書くことを両立できる気がします。そんな気張らなくたって誰もあなたの文章がどうとか気にしないよって思うかもしれませんが、私にとっては自分の書いたものが他人の目に触れるだけで大ごとなんです。でも書くうちにその境界線が薄くなっていったらいいなとも思っています。だから「エッセイ」ほどかっこつけすぎない「散文」という面を借りて文章を書いてみます。

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