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【映画 違和感 考察】えんとつ町のプペルがつまらない?映画で泣けなかった人が感じた3つの違和感を14,000文字以上で深堀り解説。

はい、こんにちわ。仔虎と申します。

あなたは、最後に涙した時のこと、覚えていますか?

先日、大人も泣ける 大ヒット絵本の映画 「映画えんとつ町のプペル」を見てきました。

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ご存知 キングコングの西野亮廣さんの一大プロジェクト。ツイッターを見たら「泣ける!」「もう何回も見てる!」というようなツイートがたくさんあったので、期待に胸を膨らませて映画を見に行きました。


それで、結果は・・・。


このノートではその時感じた感想、そして、違和感
それから最後に「あぁ、あんまり言及してないけど、この人(西野さん)絶対これ狙ってるわなぁ」と思ったことを綴っていきます。

プペル絶賛している人多いけど、え?どうして」「なんだろう、この映画見たあとの残尿感」「映画を見に行こうかどうか迷っている」と言う人に向けて、このノートを書いています。

ネタバレ満載でお送りしますので、ネタバレ嫌いな人はそっとこのページを閉じてください。

っていうか、あんた誰?

「西野大先生に向かって 違和感 とかそんな大層なこと言ってるけど、そもそもお前(仔虎)誰やねん!」

本題のプペルのお話をする前にこんな大変ごもっともな声も聞こえてきそうなので、少しだけ私の背景もお話させてください。

私は数年前までコンテンツ業界で企画サイドの人間として働いていました。
映画作りにも、キャラクターづくりにも関わり、私の関わった作品には海外の映画祭で賞を受けたものもありました。

現在、西野さんのオンラインサロンに入っており、西野さんの発信もだいぶチェックしている方だと思います。YOUTUBEを見たり、クラウドファンディングでもいくらかお金を投資してきました。

西野さんの度肝を抜くような仕事ぶり をイチ外野としていつも見させてもらっています。そして、ここがいちばん大事なのですが、私は西野さんをとても尊敬していますし、大好きです。

そんな私が見た、今回のプペルの感想をまとめるとこんな感じになります。

「最高の素材を贅沢に使った 初めての創作料理」

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「最高の素材」とは何か?

まず、絵がヤバい

今回の映画、最初に驚かされたことは「変態的な程の絵の緻密さ」「桁違いの迫力」そして、「随所に込められた細かな仕掛けの多さ」でした。冒頭に出てくる町を一望するシーンでは「おぉ!」と思わず声を漏らしてしまいそうになりました。これはアニメーションを担当した4℃さんの職人技、そして、西野さんやスタッフの愛情の賜物だと思います。2時間ぶっ通してこのクオリティの絵を網膜にブチ込んでくるので、まず退屈するということがありません。

たとえ、全く音が聞こえない状態であったとしても、2時間の映画を視覚だけで楽しめたでしょう。

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そして、声優がエモい

個人的に一番響いたのはプペルの声の美しさです。今回プペルの声優をされた窪田さん。優しくて、純粋で、朴訥(ぼくとつ)で、ゴミ人間なのに何故かセクシー。怪物と言うにはあまりにも弱々しいその風貌に、ぬくもりと、芯の通った力強さと、おとぼけたユーモアを与えてくれたのは窪田さんの声でした。ほんの数日前に生まれたはずの「プペル」と言う命が、どのような人格(?)なのか、その背景を思い描かせてくれる声でした。

あと、ちょっとなまってる感じが最高にエモい。

さらに、アクションがエグい

「映画えんとつ町のプペル」を見た人は、きっとはじめのアクションシーン(ドタバタシーン)に心奪われたことでしょう。

・空から赤い光が降ってきて、竜巻が巻き起こるシーン
・仮装したおばけたちがダンスするシーン
・ゴミ廃棄場で繰り返されるドタバタ
・トロッコに乗った二人がダイナミックに移動するシーン

ここは、漫才で言う「つかみ」の部分になります。「おぉ!おぉぉぉぉ!」息をつかせぬアクション、あらゆる人にとって無条件に楽しめます。緻密な絵でダイナミックなアクション、大人から子供まで見るものを選ばない最高のエンターテイメント。

ここで、「これから何が始まるんだろう!」とワクワクがスタートした人も多いのではないでしょうか。

名言が尊い

「映画えんとつ町のプペル」はそこかしこに名言が散りばめられてます。
原作の西野さんがこれまでの人生の中で掴み取ってきた真実のかけらたちが作品の中に込められています。

一つひとつの言葉が一つの作品のテーマにできるほど 重くて体温がある。

映画の台本はちょっとした名言集になる勢いです。プペル好きの人ならば、「私はこの言葉が好き!」「この言葉の背景には~~」「私はこの言葉に救われた」なんていう素敵なトークを朝まで語り明かすことができるでしょう。

切り取られた言葉には、それぞれその言葉を生んだ個性・彩りがあります。その名言を発している登場人物の背景にまで思いを馳せたら、質・量共に秀逸すぎて消化し切ることは出来ないと思います。

まぁ、よくこれだけ名言を思いついた&詰め込んだなぁと感心しました。

メタファー(比喩)、考察のスキがある。

私がいいなと思ったのはこの作品には考察のスキがあることです。考察のスキがある作品ではファンがいろんなことに思いを馳せることが出来ます。

特に、西野さんの背景を考えると、この作品にはいろんな背景が見えてきます。2つ例えを出しましょう。

まず、町に来てすぐのプペルがおかしを誰よりも集め、皆に称賛されていたこと。そして、仮装していた皆が仮装を脱ぎ始めた時、すぐ本当の怪物だとバレて、皆から嫌がられ、プペルが迫害されたこと。

これは、西野さん自身に起きたことを指していると思われます。
西野さんは芸人の道に入ってすぐに誰よりも実績を残しました(おかしを集めました)。

周りから称賛されている中、「このままじゃいかん!」「新しいことに挑戦だ!」と建前で言いつつも、本当のところはなんとか適当なところで現状と折り合いをつけている他の芸人仲間(怪物の仮装している子どもたち)に囲まれていましたが、西野さんは本気で「このままじゃいかん!」「新しいことに挑戦だ」と思い、果敢に挑戦していたそうです。その姿は、周りの芸人仲間から見たらまさに怪物的だったのでしょう。

「君、建前じゃなくて、本気でそんなこと言ってんの!?」
「君、仮装じゃなくて、ホントに怪物だったの!?」

皆にそう思われた途端、迫害が始まって、、。プペルと西野さんの物語はそんなスタートから始まっています。

それともう一つ。
最期にプペルの心臓は空に登り、心臓を中心に星達が回ります。
ドライに考えれば、別に入れなくてもいいシーンのように思います。でも、このシーンはこの作品にはなくてはならないシーンなのです。

回る星達の中心といえば、そう。北極星ですね。

感動のエンディングではルビッチたちが船を作るシーンが流れています。これからそう遠くない未来、ルビッチたちはこの船に乗って、町の外の海原に旅立つのでしょう。彼らは未知の大海へと航海をはじめます。

そして、星の見える海で彼らが頼りにするもの。
それは北極星(=プペルの心臓)です。
つまり、星の存在を信じ抜いたプペルの心臓は新しい世界へ旅立つものを導くシンボルになったのです。

ここには”「えんとつ町のプペル」と言う作品が、私達(観客)が夢を持てるきっかけになるように、指針となる何かになれるように”という作者の意図を感じます。

ざっくり言ってしまうと「この先の見えない世界の中で、おれはえんとつ町のプペルという作品(夢)を成功させたよ!ほら、おれ(=プペルの心臓:北極星)を見てご覧よ!こんなふうにすれば、君たちの夢も、叶うんだよ!」という作者のメッセージが込められているように思うのです。

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映画えんとつ町のプペルにはそんなメタファー、私達の夢や想像の羽を広げる広場が沢山用意されています。


で、仔虎は泣けたの??

これだけ、最高の素材を揃えたこの映画えんとつ町のプペル。

この記事の冒頭でお話したとおり、沢山の人が泣いたそうです。ヘビロテしている人もいるそうです。

では、仔虎は泣けたのか?
結論から申し上げましょう。

私はまっっっっっっったく泣けませんでした。

私の心の中に100人収容の映画館があるなら そのうち20人は後半ずっと難しい顔をしていて、17人はしらけた顔をしていました。

ここからは、プペルを見て感動できた人、感動できなかった人の違いがどこから生まれたか。そして、きっとこうすればもっと良かったのでは?という私の考える改善点をお伝えします。

最期には、世紀の英雄 西野大先生の稀代の名作に向かって、なぜ仔虎ごときの小物がこんな偉そうに駄文を連ねたかと言う理由についてお伝えしたいと思います。


???が多すぎて感動できない!

まず、私が感動できなかった理由は大体次の3つに集約出来ます。

・突拍子(とっぴょうし)なさすぎ
・伏線多すぎ
・疑問多すぎ
(+クオリティの違和感に関して)

これをまとめて「はじめての創作料理問題」と私は呼んでいます。先ほどお話したとおり、この映画は素材が素晴らしい。でも、全体として見たときに違和感が出る。

これははじめて創作料理を作ったときに「すごいもの」が出来上がってしまう現象に似ています。

「どうしてそう作ったの?」という疑問が湧き出る「すごい料理」。隠し味や装飾、奇抜な調理法。予想の斜め上を行く組み合わせ。ものすごい情報量が込められた創作料理です。

普通に作れば普通に美味しいのに!というもったいない料理です。

ぶっちゃけ、私も西野さんのサロン投稿読んだり、ツイッターでハッシュタグ検索したりして、前評判を調べていったわけですよ。
ざっくりいうと「(積極的に)感動しに行った」わけです。

そんな、作品を作ってる人から見たら「ネギ背負ってきたカモ」みたいな私が感動しなかった理由は上記の3つが気になりすぎて、感動なんかしていられる余裕がなかったんです。

実は、私の周りにはそういう感想を抱いた人が少なからずいます。

その人達は「泣いたんだけど、違和感が残る」「なんであんなに評判がいいのかわからない」「いいとも思うけど、なんかもやもやする!」というよう感想を持っていました。

それぞれ見ていきましょう。

・突拍子なさすぎ問題

「映画えんとつ町のプペル」をみて、はじめに違和感を感じたのは「オープニングのダンス」でした。ゴミ人間プペルが生まれたのはハロウィン。彼は生まれてすぐに街に繰り出し仮装した子どもたちと一緒に一糸乱れぬダンスを(まぁまぁの尺をとって)踊ります。このダンスであってるのかな?

まずはじめにここで感じたのが「あれ?なんで?」と言う違和感。ゴミ人間のプペルがはじめて町の皆と踊るまでには「出会う→仲良くなる→踊りの誘いを受ける→踊りの練習をする→踊る」というようないくつかのステップがあったはず。それをすっ飛ばしていきなり全力で踊られると「あ……。あれ??」という気になってしまいます。この作品には随所にこんな違和感が散りばめられています。(あの踊りには「プペルが子どもたちと仲良くなっていく」メタファーと言う意味があるのかもしれませんが)

アントニオがプペルを殴るときもそう。
アントニオにまだ感情移入できてない状態で「え?なんで急に殴るん?」と思いました。

かぁちゃんのセリフなどもそう。
まだかぁちゃんのこともよく知らない状態で名言っぽいことを言われても、気持ちの上でうわ滑ってしまうんです。

登場人物や状況と関係性が出来上がる前にインパクトのあるパンチ(名言とか、アクションとか)が来るので、思わず混乱・警戒してしまうんですよね。インパクトの内容自体は「わからないでもない」ので受け入れはするんですが、なんか腑に落ちないのです。

いきなり心の玄関をバーン!と開けられ、押し入られようとしている感じがしました。それがOKな人はいいのかもしれませんが、それがNGな人には?が連なるはず。

冒頭のゴミ捨て場のアクションもそう。急に見ず知らずの二人がゴミ捨て場で協力して、ピンチをくぐり抜けるというハイクオリティなアクションに、心が追いつきませんでした。

このシーンですね。

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このシーン、はじめてYOUTUBE動画で見たときにはラストあたりで仲良くなった二人が窮地を切り抜けるために強い意志を持ってトロッコに乗ってどこかに行くのかな?と思っていたのですが、実際のところ、出会ったばかりで名前も知らない二人が、事故的にトロッコに乗せられて流されるがままどこかに向かっていると言うシーンでした。

ビジュアルはかっこいいのですが、このシーンを見ている時なんか気持ちが置いてけぼりにされてたのですよね……。

この映画、まるではじめて会った見ず知らずの人から人生訓を授けられるみたいな。「え?なんか、言いたいことはわからんでもないけど、なんでこの関係性で、いきなりそんなすごいこと言うん?」みたいな。そういうところが随所にあり、そういう箇所では高確率でこの違和感が発生してました。

伏線多すぎ問題

この映画の裏側には、語られていない物語が沢山あります。

ブルーノの最期ってじつのところどうなの?なぜかぁちゃんは車椅子なの?異端審問官って組織はどうやって出来たの?などなど。

きっと、それぞれには深い物語があるのでしょう。そして、それは次回作や外伝のための伏線になるのかもしれません。個人的には、この伏線がクトゥルフ神話のように外伝として自己増殖していくと面白いなぁと思ってます。

でも、その伏線(端折り)が多すぎて、映画を見ている間に気になることがずんずん積み重なっていきます。例えばこんな感じ。

まず、空から落ちてきた心臓
(この伏線については絵本の中にちょっとだけ書かれています)
洞窟にいた猫
(洞窟に「ネズミ」ではなく「猫」がいたということはおそらく、洞窟でネズミを退治するために「猫」を飼っている「人」が住んでいるはず)
スコップと出会った洞窟の背景にある あやしい光の筋
(鉱脈?なんでしょう?光の筋自体に価値があるなら、発掘時に持ち出されているから、洞窟には残ってないはず。あれは持ち出す価値もない「なにか」と思います)
星の見えない街にいる「星見」と言う占い師
(どうやって占いしてるんでしょうか)
見せ場の無い鬱屈した偉い人「レター氏」
(西野さんのYOUTUBEでは今後活躍する「重要な人」と言っていました。)

こんなふうに伏線らしきもの沢山が散りばめられているんですが、大半の伏線は回収されてません。そして、その回収されない伏線の集合体がなんとも言えない気持ち悪さを生み出しています。

しかも、正確に伏線なのかどうかすらもわからないものもザクザク出てきます(洞窟の光の筋とか)(仲良くなっているコウモリとか)(心臓が船呼び寄せたりとか)。

まるで運動会の玉入れ競争のように、大量の伏線をどんどん心に放り投げられている感じ。慣れ親しんだ作品で伏線を投げられるのは良いのですが、初めて見る人にとってこれらの大量の伏線はただただ「え?なんで?」の集合体。

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上映中 「急遽打ち切られた連載漫画のような気持ち悪さ」が私の心をどんどん占拠していって、私の心から感動する隙間がなくなっていました。
まるで、初めて見る「 TV放送を2時間に圧縮した総集編的アニメ映画」を見たときのような消化不良感が心のなかに漂っていました。

疑問多すぎ問題

そしてこの作品、疑問点が多ことも特徴です。しかも、細かい揚げ足取り的なところから結構大事なところまで、気になることが多くてどんどん疑問が湧き出てくるので、作品に集中できなかったのです。

・まず筆頭はプペルとブルーノ。魂同じなのに人格違いすぎ。
・洞窟の中で会ったあのコウモリたちは何?一匹だけ仲良くなってて、作品の中で彼らには触れられていないけど、出す必要あったの?可愛かったけど。
・スコップが「地上に植物ない」って言ってたけど、プペルの体は竹(木?)ほうきで出来てない?プペル、藁を服にしてない?そもそも、地上に植物がないなら「植物」って概念(=言葉)がないはず。
・スコップは自分で穴掘れるなら無煙火薬いらなくない?
 (無煙火薬は地盤の硬いところ専用?)
・ルビッチは星を見るためにえんとつ掃除屋になったけど、ブルーノは「ずっと空を見てないといけない」的なことを言ってた割に、室内仕事の仕立て屋続けてたの??(そして、ブルーノはマッチョの無駄遣い)
・ブレスレット探しに行ったゴミ捨て場、異常に広くない?そして、最初に出てきた焼却炉は活用されてないの?
・プペルはゴミ捨て場にブレスレット探しに行った後、自分でシャワーとか浴びないの?(臭いことに気づかないのか?)
・プペルがブレスレットを頭から外そうとしたときに、ルビッチがプペルの腕に全力でぶら下がってたけど、力学的にはあれ、ブレスレット引き剥がす方に加担してない?(その時のプペルの手はプルプルしてた)
・なんで船は心臓に呼応して現れたの?
・あの船は何?
・あの船とブルーノはどういう関係?
・そもそも、あの心臓はブルーノのもの?(ブレスレットは彼のだと思うが、心臓は別の何かブレスレット(=脳)だけブルーノ、という可能性は微レ存)
・ブルーノ、なんでいなくなったの?
・夢を信じるがテーマなのに、夢を追ったブルーノと夢を追ったシルビオレターさん、両方とも結局悲惨な最期を迎えてないか?
・船飛ばさなくても火薬だけ風船に詰めて雲吹き飛ばせば良くない?
 わざわざ重い船飛ばす理由がわからない。
・空に船を飛ばすつもりなら、船のロープははじめから外しておこう。
・そもそも、花火とかで雲吹き飛ばせば良くない?
・異端審問官が弱すぎる(車椅子の病人にも近づけてない。武器を持っているのに、町人の反抗にも対応できてない。この世界には銃はないの?)
・えんとつ町は海(?)の中にあるくぼみに「町」を作って、海から滝のようなもので水を引いてるけど、海から来た水はどこに排出されってるの?くぼみに水が溜まって町は水没しないの?
・なぜ煙はくぼみを覆うぐらいの丁度いいところで止まっているの?
・煙は何かを燃やしているの?とすれば、くぼみにCo2溜まって危なくない?
・「昼」や「夜」と言う言葉は出ていたから、「太陽」という概念はありそうなものだけど、太陽についてはどう考えられているの?なぜ「太陽を見る」じゃなくて それよりも輝きが小さい「星を見る」がテーマなの?


などなど。仔虎は3日前に一度見ただけないのですが、少し思い出すだけでもこれだけの疑問が浮かんできてました。実際、映画見ているときにはすごいペースで疑問が出てきていました。その疑問の波にさらわれて、感動するタイミングを見失ってしまっていたのです。

正直、「これとこれってツジツマあってないよな」みたいに思うところも結構あって、感動のラストの前にはすでに私の頭は疑問と不満で占められていました。

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クオリティへの疑問

そして、これはおまけ程度になのですが。ちょっとだけ申し添えておきます。作品を見ている中で絵や声にあれ?と言う違和感を感じた方もおられるかと思います。実は、私も何度か違和感を感じていました。その理由を2つご紹介します。

これ、実は「クオリティが高いからこそ生じる違和感」(=不気味の谷)と言われています。古風な2Dアニメであれば「お約束」と割り切れる表現も、CGの作りが良過ぎることで、逆に生々しさが違和感を呼びます。特に、人間の表情のような細かな表現をCG化しようとしたときなどにこの違和感が発生します。

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※Wikipediaより

加えて、声優さん。皆さん絶賛しているルビッチとブルーノの声ですが、実は私は違和感を感じていました。
理由はシンプルで、これはこの声を担当している方が専門の声優さんではなく、役者さんや噺家さんだからだと思います。きっと声優さんとは違う技術でお話されているところが、なんとなく気になってしまったのだと思います。噺家さんの声は、「ブルーノの声」としてではなく「その噺家さんの声」として聞いたときにはすっごく気持ちよかったです。とはいえ、役者さんを声優に起用しているジブリ作品にも同じような違和感を感じてしまう私なので、この点は私にとってはしょうがないのだと思います。

ただ、プペルとスコップの声はほんとに良かった!!プペルの声、最高!

では、本作はどうすればよかったのか?

では、稀代の名作「映画えんとつ町のプペル」がもっと誰でも感動できるようにチューニングするとしたら、具体的にどうすればよかったのでしょうか。私が考える方法は次の3つです。

・考証する。
・関係をきちんと温めてからアクションを起こす。
・作品内で解決されない伏線はできるだけ見えないようにしておく。

一言でいうと、「落ち着いて、客目線で作ってくれ」です。

・考証する。

 まずは、科学考証。「それって、実際やるとしたらどうなるんだっけ?」と言う疑問を持って、作品と向き合い、その答えを作中に添えておくことです。もちろん、「この島は魔法で運営されている」などの都合の良い前提を入れることでもOKです。そして、魔法などの概念を持ち出すなら、それをどこかで明言する。それだけで納得感が全然変わってきます。実際に「腐るお金」であるレターの紹介の時には作中で「そういうものを作った」と紹介してくれたので、「コインの原材料は何?」などの野暮な疑問は出ませんでした。
 一方、西野さんは大阪から東京までの約650キロを自転車で助走し、ゴール地点で飛行を試みるという珍企画「E.T.チャレンジ」(99.9%の助走は無駄 笑)を決行するほどのロマンある方なので科学的にどうこういう野暮なことは気にされないのかもしれません。科学的な疑問があったっとしても、「そこはプロレスでしょ」「気にしないお約束でしょ」と言われればそれまでです。

でも、気になるのです。
ほんとに、揚げ足取りたいわけじゃないんです。
私も嫌ですけど、気になるものは気になっちゃうんですよ……。

この「気になる」はほんの一手間加えるだけで大きな納得感やリアリティに繋がります

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例えば、外の海から町に水を入れる滝を書くのであれば、後ほんの一手間、「町のくぼみから外界の海に水を排出するポンプ」や「もっと下の世界に水を落とす仕組み」を書いてさえくれれば、「おぉ~!細かいところまで考証されてる!」と、すごく充実した鑑賞が出来たと思います。実際に町のこまかい全容や正確に描かれている船のプロペラの様子などを見たときには「おぉ!」と思いました。

・関係をきちんと温めてからアクションを起こす。

 観客がキャラクターと親しくなるまで、日常の何気ないやり取りなどを表現して関係性を温めてほしいのです。

例えば、「これは母ちゃん命令だ… 絶対に帰ってくるんだよ!」という本作のコピーにも使われている名言ですが、これも、ブルーノが帰ってきていないことに関するかぁちゃんの思い、「器が広い」とされていたかぁちゃんが使うには少し厳しい「命令」という言葉。

この背景(例えば、このかぁちゃんはもともと審問官の偉い人で日常的に「命令」をする立場の人だったが、ルビッチが生まれてからは「命令」はしなくってた等)のが描写されていると、言葉がもっとスッと心に染み入ってきたと思うのです。

観客の受け入れ体制を整えること、心を温めておくことの重要性が現れています。もちろんね、これも「そんなの、察しろよ」「解れよ」と言われればそれまでです。

ただ、物語上の関係性もよくわからず、色んなキャラクターへの感情移入も出来ていない状態で多方向から密度の濃いセリフ言われると、まるで色んな味のカルピスの原液を飲まされているような感じになって、心が胃もたれするのです。

船が旅立つシーンの近辺では色んなキャラクターが名言を言い過ぎてて、サビだけが入ったオムニバスを聞いているような状態になっていました。「いいこと言ってるっぽいことは解るんだけど、全体としてようわからん!」と言う感じです。

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・作品内で解決されない伏線はできるだけ見えないようにしておく。


今回の作品はとにかく情報量が多い。「地上に植物がないこと」や「鬱屈としたレターさん」「ホクロの双子」「星見」「レター通貨」などが出てましたが、どの伏線も今作ではそんなに重要な役割を果たしていませんでした。

情報が新しく出てくる度にそれらの情報に脳のメモリーを取られて、「あれ、これいつまで覚えてないといけないんだっけ?」「あれ、この概念、この作品に必要なんだっけ?」と最終的にわけがわからなくなってしまっていました。あけすけに言ってしまえば、作品に内容詰め込みすぎ!で、逆によくわからなくなってしまっていました。

正直、もっとスッキリさせてほしかった!

もしくは、脳のメモリーを無駄遣いさせないように、本作品で使わない伏線はもっと上手に隠してほしかった!

「あなたの頭のメモリーの問題でしょ?」と言われればそのとおりですが、でも、ホント情報量がすごいんですよ……。

全体として「情報の整理整頓」「じっくり時間をかける」ということをするだけで、この作品の伝わり方は変わったはずです。

SF作品によく見られるような考証をしっかりやって、余計な情報を削ぎ落として、間を作る。これだけで、この作品は随分見やすくなったはずです。

きっと、思い入れが山盛りあって、頭の回転もいい西野さんが「あれもこれも作品の中に入れよう」と現場をグイグイ引っ張っていたのではないでしょうか。

泣けなかった観客はどうすればよかったの?

以上、映画えんとつ町のプペルで泣けなかった3つの理由をお話してきましたが、ここからは「映画えんとつ町のプペル」をもっと味わうための方法を提案させていただきます。

実は、作品はというものは、それだけでは完成しません。
その作品を見る人がいて、はじめて作品は完成するのです。

ライブなどはまさにそうです。お客さんの「ノリ」がアーティストの力を限界以上に発揮させることもあります。反対にお客さんの「ノリ」が悪ければアーティストは本来の力を発揮することが難しくなるでしょう。

もちろん、アーティストにとってもお客さんにとっても「ノリ」の良いお客がであることがライブを最大限に楽しむためには重要なのです。

実はこれ、映画やドラマなどでも当てはまります。

「その作品を感動できるかどうか」は観客自身が感動を「取りに行くかどうか」にも大きなポイントが有るのです。

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「感動を取りに行く」とはどういうことか。それは、登場人物の背景に思いを馳せ、語られていない物語を自分自身で紡ぎ、自分をそこに投影させ、作品を理解しようと精一杯努力することです。余計なことには目を向けず、小さいことは気にもせず、ただひたすらに作品と向き合うことです。

小さい時、はじめてあのお気に入りの洋楽を聞いてしびれたあの日、英語なんてわからないけど、この曲の意味を理解したい!誰かの手の入った翻訳じゃだめだ、原曲をそのまま理解したいんだ!と辞書を引いて、ひとつひとつの言葉を噛み締めて意味を編み上げたあの日、そこにはその作品に「感動を取りに行った」あなたがいたはずです。

「何かよくわからん! でも、ここにはきっと俺のハートを掴んでを揺さぶるような意味が絶対あるはずだ!」

そう信じて作品を見ると、どんな作品でもガラッとその様相を変えます。あらゆる要素が感動を呼び覚ますメッセージとして語りかけてきます。

そして、「映画えんとつ町のプペル」はそんなメッセージが詰まった名作です。もし、この映画を見て泣くことが出来なかった人は、もう一度映画館に足を運び「感動を取りに行って」みてください。日本中から嫌われながらも夢を貫き、今や多くの人に支持された作者の命がそこにはあるはずです。これが感動できない訳ありません。

結局、泣ける人と泣けない人って何が違ったの?

この作品で泣けた人・感動した人と、そうでなかった人の違いはシンプルです。それは、「余計なことを考えたかどうか」「感動を取りに行ったかどうか」です。余計なことというのは、ざっくりいうと科学考証を必要とするような野暮なこと。感動を取りに行ったかどうかというのは上で説明したとおりです。

「スクリーンの隅までどんな作品かチェックしてやる!」
「ほら、みてやるから俺を感動させてみなよ!」
そんな心持ちでこの作品を見たとしたら、きっと余計なところに心を奪われてこの作品の真髄を楽しむことは出来ないでしょう。

この作品の映像クオリティは極上です。隅々まで観察せず、感じるまま素直にビジュアルに圧倒されれば、簡単に感動できるでしょう。

この作品の原作はあの西野さんです。あれだけ人の心をつかんだ人の渾身の傑作です。感動を取りに行けば、そこにはたくさんの感動の種があります。

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もしまだ感動を味わえてない方(一度見たけど感動できなかった!と言う人)は、是非映画館に足を運んでみてはいかがでしょうか?

仔虎は、なんでこんなnote書いたの?

さて、ここまで長々と私の駄文にお付き合いいただきありがとうございました。この文章を読んであまり気持ちの良い思いをしなかった人もおられると思います。

「私は感動したのに、この人は何ごちゃごちゃうるさいこと言ってるの!?」

そんなふうに感じられた方もおられると思います。正直、私としても、自分の感じた違和感を黙っておくことも出来ました。というか、周りの人に合わせて「うんうん、見た見た、感動した-!泣いたー!」と話を合わせることも出来たでしょう。そっちの方が楽で、こんなに浮くこともなかったでしょう。ツイッターのプペル関連ツイートを見ても、絶賛の嵐、感動の涙の雨。

なにか言おうものなら石を投げられそうな雰囲気のある中、迎合したほうが安心です。きっと名のある人ならプペル批判などはしないほうが正解でしょう。

でも私はそれを選びませんでした。

私は、西野さんが必死に(ホント必死に!)作品と向き合う姿を遠くからいつも見ていました。あの人は、自分の信じたことを貫いた。だからこそ、日本最大のオンラインサロンを運営し、一般人では到底届かないほどの時間とお金と心血を投じて映画を作ることが出来たのです。

私はその姿に感動していました。

作中でも、終盤、船が空に旅立つその時、えんとつ町に感じていた違和感を開放した民衆たちが、審問官たちを圧倒しているシーンが有りました。

しっかりと映画えんとつ町のプペルを見たのなら、ちゃんと向き合ったのなら、作品のメッセージを受け取ったのなら、えんとつ町の人々のように、自分の中にある違和感をきちんと開放すべきではないか?私はそんなふうに考えていました。

私一人の違和感だったらカノンをBGMに「思っとけ……。」と流していたら良かったでしょう。

でも、私や私の知人が作品に違和感を感じていたのは事実です。きっと、日本中に私の知人と近いことを感じていた人は少なからずいるでしょう。
私の知人たちは「違和感を言語化出来ない」「違和感を表現すると叩かれる気がする」「この違和感を話す相手がいない」と言っていました。総じて「よくわからんけど、なんかもやもやする。この心が整理整頓できない、相談する人もいない」と言っていました。面白いことですね、西野亮廣という巨人が生み出した作品「えんとつ町のプペル」はもうすでに大きなうねり、マジョリティを生み出していたのです。

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でも、だからこそ、私は私が感じた違和感をちゃんと表現しようと思いました。この思いを表現することが私にとっての西野さんへの恩返しにもなるのではないか。このうねりの中にながされて、西野さんが示してくれた北極星を見失うことは作品を見ても何も学ばなかったことと同じなのではないか?そう思ってnoteをしたためました。この記事に作品自体を否定する気持ちは微塵もありません。

この記事が私と同じようにこの作品に違和感を感じた人にとって、共感を呼んだり、心の整理整頓につながれば幸いです。

そして、最期に夢を追い自分を信じるすべての人へのエールを贈りたいと思います。

「信じぬけ!」


【追伸】プペル作品も「PRの一環」という考察

最後に一つ考察を。

映画内で用いられていた「レター」と言う通貨は通称「腐るお金」「自由貨幣」といわれる貨幣の一つで、現代のお金の世界を一新させる可能性を持つ非常に面白い仕組みです。実は私、10年近く前からこの「腐るお金」について研究していました。

「腐るお金」は、本当に素晴らしい可能性を秘めています。経済を回し、町を豊かにし、投資を活性化させ、最終的にはベーシックインカムという、今世界的にも注目される仕組みを実現させることも出来ます。

実際にこの自由貨幣を導入している団体もありますし、戦後の不況時にこの自由貨幣を導入して経済を盛り返した自治体もあります。でも、この自治体の自由貨幣はプペルの作中でも有ったように、中央銀行によって握りつぶされてしまいました。この仕組みには素晴らしい可能性があります、でも、それを作り上げて広げていくことは本当に大変なことなのです。本当にたくさんの人の協力と信頼を集めなければならない一大事業なんです。

作中ではシルビオ・レターと言う名前が出てきましたが、現実にはシルビオ・ゲゼルと言う人がこの「腐るお金」の考え方を深めました。そして、「ネバーエンディング・ストーリー(はてしない物語)」や「モモ」で有名なミヒャエル・エンデがこの「腐るお金」を世に広めようとしましたが、志半ばで天寿を全うしました。

その様子は「エンデの遺言」と言う本にまとめられ、日本で一大ブームを巻き起こしました。日本で地域振興券や地域通貨などが流行ったのはこの「エンデの遺言」の影響もあったでしょう。

しかし、そのブームは一過性のもので終わり、現在は自由貨幣の事を知る人は多くはありません。

あの戦略家・策略家の西野さんは
「社会インフラを取る!」
「自分が死んでもコンテンツが残る仕組みを作る!」と常々いっておられます。

そんな西野さんが社会の最も根幹をなすインフラ「通貨」に目を向けないはずがありません。あの人はきっと「腐るお金」を実現させようと目論んでいるのでしょう。
(西野さんが「腐るお金」について言及することはほとんどありませんが)

そう、そしてきっと「えんとつ町のプペル」はその「腐るお金」を世に広めるための巨大なきっかけ、壮大なPR戦略の第一歩なのではないか、と私は考えています。

私も、生きている間に「腐るお金」「ベーシックインカム」のアイデアを実現させたいと考えている一人です。この仕組みは、導入には様々なハードルがありますが、間違いなく世界を良い方向にシフトさせます。もし、この「腐るお金」に興味がある方はお気軽にご一報ください。色々な情報交換ができると幸いです。

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