ブックレビュー ロバート・マッキー著『ストーリー』(16)後半 第4部 脚本の執筆 問題と解決策
『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』のレビュー第十八回を投稿します。
(各回をまとめたマガジンはこちらです。)
※通常は1章分ごとにレビューしていますが、第16章にあたる『第4部 脚本の執筆 16 問題と解決策』はボリュームが大きいため、投稿を前、後半に分けます。
この投稿は「後半分」です。
※ こちらのレビューは、非常に内容が濃い本書を私なりにまとめた「概要」です。
興味をお持ちになった方は、ご購入の上、本レビューを副読本的にお読みになることをお勧めします。
第4部 脚本の執筆
16 問題と解決策 後半
【視点の問題】
以下、中川から補足です。
本書は翻訳本であり、上に例として挙げられている脚本(の一部)も、英語で書かれたものの翻訳です。
そのため、日本の一般的な脚本とは書式が異なっているのですが、ともあれ、著者が言わんとしているのは「脚本家は『視点』という言葉を二種類の意味で使う。その一つは『あるタイミングで登場人物の目が捉えている映像』のことである」と、ご理解いただくと良いと思います。
シーンにおける視点
脚本家の視点の選び方によって、監督の演出や撮影方法も、観客の共感の対象も変わってくる、と著者は言います。
例えば上記の「ジャックと、その息子トニー」のストーリーの場合、脚本家は四つの異なる視点から描くことができます。
第一に、脚本家がジャックをイメージの中心に置けば、観客はジャックに共感。
第二に、脚本家がトニーをイメージの中心におけば、観客もトニーに共感。
第三に、ジャックとトニーの視点を交互に採り入れれば二人ともに親近感を覚える。
第四に、「コメディの作り手がよくするように、遠くからふたりの横顔をとらえれば、どちらにも共感せずに笑いを誘われる」と著者は述べています。
ストーリーにおける視点
【脚色の問題】
以下、中川からの補足です。
上の引用の一行目に「オプションを取得し」とあります。
「オプション契約」という言葉は、日本の映画界、ドラマ界でも一般的に使われており、小説等を原作として、映画やドラマを制作するために結ばれる契約のことです。
著者はストーリーを伝える三つの媒体「散文(小説)」「演劇(舞台劇、ミュージカル、オペラ等)」「映像(映画、テレビ)」について、それぞれ得意とするものが違うと言い、以下のように解説しています。
例えば小説内で、登場人物の言葉と胸の内とが裏腹な場合、「表向きの言葉」をセリフとして、「胸の内の本音」を地の文として書いておけば、読者はそれを自然に受け入れます。
こういった点から、著者は「小説は、演劇や映像に比べて登場人物の内面(思考や感情)を描きやすい」と言っているわけです。
ここで言う「個人的葛藤」とは、恋愛や家族内の問題等、「個人間の親密な関係における葛藤」を指しています。
この種の葛藤は会話を通して生じることが多いので、「セリフを中心とする媒体」である演劇で描くのに適している、と著者は述べています。
もちろん映画にもセリフはありますが、演劇の方が個人的葛藤を描きやすい理由として、著者は以下の点を挙げています。
映画では一般に、登場人物のセリフに自然さが求められますが、演劇ではリアルとは言えないセリフ、現実世界では言いそうもないセリフを使って、個人的葛藤を豊かに表現することもできる、というわけです。
「非個人的葛藤」という言葉は、「社会制度や環境に対する葛藤」を意味しています。
映画は映像を用いることで、演劇、小説に比べて膨大な量の情報を表現でき、「社会制度」や「環境」といったものを効率よく、視覚的に表すことができます。
「演劇、小説に比べて、世界観を表現しやすい」と言い換えることもできると思います。
このように媒体ごとの特徴を示した上で、著者は、小説、戯曲を映画化することの難しさを以下のように述べています。
これは小説原作の映画企画における、”あるある”だと私も思います。
例えば、企画者は原作小説に心惹かれ、「面白い! 何としても映画化を!」と言っているのだが、実はその人が面白く感じているのは内的葛藤の描写ばかりで、脚色を任された脚本家からすると、小説内に二時間の映画になるほどの出来事が起きておらず、頭を抱える……といったことが起きることがあります。
この前提で、著者は脚色について以下のようにアドバイスしています。
「三つのレベルの葛藤」とは、「内的葛藤」「個人的葛藤」「非個人的葛藤」を指しています。
「積極的な再考案」を行う際のポイントとして、著者は以下のようなことを挙げています。
・まずは小説内の記述順と関係なく、出来事を時系列順に並べ、必要に応じてシーンの削除、追加をする。
・小説の地の文で描かれている登場人物の内面を、映画ではいかにして「表」で描くかが重要。これができるかどうかで作品の成功か失敗かが決まる。
・この映画は原作と異なる、と言われることを恐れない。
脚本家が頻繁に受ける誤解として、「小説等の原作があるならば、脚本家の仕事は楽」というのがありますが、著者の意見をまとめると「脚本家に、オリジナルストーリーが描ける筆力がなければ、脚色もできない」言って良いでしょう。
【メロドラマの問題】
ここでいう「メロドラマ」とは、「通俗的で、表現が大袈裟なドラマ」といった意味と理解しておけば良いと思います。
「出来事には原因があり、原因と同じ力を持つ出来事しか起こらない」という説明が非常に分かりやすいと私は感じました。
例えば書き手が登場人物に突飛な行動を取らせると、「普通はこんなことしない」というフィードバックを受ける場合があります。
そういった際に書き手は、指摘を咀嚼せずそのまま受け入れる(=登場人物の行動を常識の範囲内に収める)のではなく、まずは「行動に見合った動機を描けているかどうか」を見なおすべきだ、ということなのでしょう。
【穴の問題】
ストーリー展開に明らかな矛盾があったり、ストーリーの基盤となる設定がぐらついていたりすれば、観客はその作品を心から楽しむことができません。
とは言え、矛盾の解消や設定の説明にばかり時間を費やすのも、明らかな「穴」があるのと同様に不自然ですし、書き手が認識している「穴」に、観客は気づかない場合もある、と著者は言います。
「観客が気づかない穴」の例として、著者は映画『チャイナ・タウン』の登場人物アイダ・セッションズのセリフを挙げています。
アイダ・セッションズの職業は女優で、本作のヒロインのイヴリン・モウレーのふりをして、主人公の探偵J・J・ギデスの前に現れます。
そのアイダが、殺人事件に関わる重要な手がかりをギデスに教えるというシーンがあるのですが、ここが「穴」だと著者は言います。
アイダは金で雇われてイブリンのふりをしているに過ぎず、そのような人物が重要な手がかりを握っているのは不自然、というわけです。
ですが、作品内で「アイダは金で雇われた女優だった」と明かされるのは、アイダがギデスに手がかりを教えてから一時間半が経過した後です。
観客の多くは、「一時間半前のシーンで、アイダがギデスへの電話で何を話したか」を詳細には覚えておらず、「穴」には気づかない、と著者は言います。
この例として著者は、映画『カサブランカ』の登場人物フェラーリの行動を挙げています。
「拝金主義者のフェラーリが、ヒロイン・イルザの夫のラズロに手助けをしたにも関わらず、見返りは求めない」というシーンがあり、脚本家はフェラーリにこんなセリフを言わせています。
脚本家は「フェラーリは衝動的に良いことをしたくなったのだ」と、あえて「穴」を示すようなことをしているわけです。
観客が作品世界に引き込まれている時は、このような荒業っぽいことも通用する、と私も思います。
逆に作品に引き込まれていない観客は、「理屈が通っていない」「整合性が取れていない」といった点にばかり注目する傾向があります。
つまり自作に対して「穴」の指摘をたくさん受けた際には、論理の穴を埋めようとするだけでなく、「観客の心を捉える」ということに対してより注力しなくてはならないのでしょう。
☆「第4部脚本の執筆 17 登場人物」に続く
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※このブックレビュー全体の目次は以下の通りです。
第1部 脚本家とストーリーの技術
(1)ストーリーの問題
第2部 ストーリーの諸要素
(2)構成の概略
(3)構成と設定
(4)構成とジャンル
(5)構成と登場人物
(6)構成と意味
第3部 ストーリー設計の原則
(7)前半 ストーリーの本質
(7)後半 ストーリーの本質
(8)契機事件
(9)幕の設計
(10)シーンの設計
(11)シーンの分析
(12)編成
(13)重大局面、クライマックス、解決
第4部 脚本の執筆
(14)敵対する力の原則
(15)明瞭化
(16)前半 問題と解決策
(16)後半 問題と解決策
(17)登場人物
(18)ことばの選択
(19)脚本家の創作術
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