見出し画像

ブックレビュー ロバート・マッキー著『ストーリー』(16)後半 第4部 脚本の執筆 問題と解決策

『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』のレビュー第十八回を投稿します。
(各回をまとめたマガジンはこちらです。)

※通常は1章分ごとにレビューしていますが、第16章にあたる『第4部 脚本の執筆 16 問題と解決策』はボリュームが大きいため、投稿を前、後半に分けます。
この投稿は「後半分」です。

※ こちらのレビューは、非常に内容が濃い本書を私なりにまとめた「概要」です。
興味をお持ちになった方は、ご購入の上、本レビューを副読本的にお読みになることをお勧めします。

第4部 脚本の執筆
16 問題と解決策 後半

【視点の問題】

脚本家にとって「視点」にはふたつの意味がある。
まず、視点ショットだ。例をあげてみよう。

○室内 ダイニングルーム――昼
ジャックがコーヒーを飲んでいると、突然、車の急ブレーキの音が聞こえる。衝突音がして家が揺れる。
ジャックは窓に駆け寄る。
ジャックの視点。
窓の外で、息子トニーの車がガレージドアにぶつかり、トニーが酒に酔って笑いながら、おぼつかない足どりで芝生の上を歩いてくる。
ジャックは怒りにまかせて窓を勢いよくあける。
(P439より引用)

以下、中川から補足です。
本書は翻訳本であり、上に例として挙げられている脚本(の一部)も、英語で書かれたものの翻訳です。
そのため、日本の一般的な脚本とは書式が異なっているのですが、ともあれ、著者が言わんとしているのは「脚本家は『視点』という言葉を二種類の意味で使う。その一つは『あるタイミングで登場人物の目が捉えている映像』のことである」と、ご理解いただくと良いと思います。

もうひとつは脚本家の視点である。
ひとつひとつのシーンをどの視点から描くのか、ストーリー全体をどの視点から語るのか、ということだ。
(P439より引用)


シーンにおける視点

ストーリーでは、かならず時間と場所が設定される。
だが、シーンごとに起こる出来事を考えるとき、どこからそれをながめるのかというのが、脚本家の視点である。
登場人物の言動、反応、周囲の環境をとらえる角度と言ってもよい。
(P439より引用)

脚本家の視点の選び方によって、監督の演出や撮影方法も、観客の共感の対象も変わってくる、と著者は言います。

例えば上記の「ジャックと、その息子トニー」のストーリーの場合、脚本家は四つの異なる視点から描くことができます。
第一に、脚本家がジャックをイメージの中心に置けば、観客はジャックに共感。
第二に、脚本家がトニーをイメージの中心におけば、観客もトニーに共感。
第三に、ジャックとトニーの視点を交互に採り入れれば二人ともに親近感を覚える。
第四に、「コメディの作り手がよくするように、遠くからふたりの横顔をとらえれば、どちらにも共感せずに笑いを誘われる」と著者は述べています。


ストーリーにおける視点

一般論としては、質の高い作品を作るにはストーリー全体を主人公の視点から描くとよい――主人公に自分を重ねて、作品世界の中心に置き、ひとつひとつの出来事を通じてストーリー全体を主人公の目でとらえるのだ。
(P441より引用)

主人公と過ごす時間が長ければ長いほど、主人公の選択を目にする機会が増える。
その結果、観客と主人公のあいだに、より深い共感と感情の絆が生まれる。
(P441より引用)


【脚色の問題】

文芸作品の映画化のオプションを取得し、脚本として書きなおせば、ストーリーを作り出す大変な作業を避けられるという考えがある。
しかし、そんなにうまくいくことはまずない。
脚色のむずかしさを理解するために、ストーリーがいかに複雑なものであるかを振り返ってみよう。
(P441より引用)

以下、中川からの補足です。
上の引用の一行目に「オプションを取得し」とあります。
「オプション契約」という言葉は、日本の映画界、ドラマ界でも一般的に使われており、小説等を原作として、映画やドラマを制作するために結ばれる契約のことです。

著者はストーリーを伝える三つの媒体「散文(小説)」「演劇(舞台劇、ミュージカル、オペラ等)」「映像(映画、テレビ)」について、それぞれ得意とするものが違うと言い、以下のように解説しています。

小説は内的葛藤のドラマ化にすぐれた媒体だ。
この点で、演劇や映画は小説に遠く及ばない。
一人称であれ三人称であれ、小説家は登場人物の思考や感情にはいりこみ、繊細で緻密で詩的なイメージを使って、その内的葛藤の激しさや強さを読者の想像力に訴える。
(P442より引用)

例えば小説内で、登場人物の言葉と胸の内とが裏腹な場合、「表向きの言葉」をセリフとして、「胸の内の本音」を地の文として書いておけば、読者はそれを自然に受け入れます。
こういった点から、著者は「小説は、演劇や映像に比べて登場人物の内面(思考や感情)を描きやすい」と言っているわけです。


一方演劇が得意とするのは個人的葛藤だ。
この点で、小説や映画は演劇に遠く及ばない。
すぐれた演劇作品はそのほとんどが台詞で成り立っていて、観客はおそらくストーリーの八十パーセントを耳から取りこみ、目から取りこむのは二十パーセントにすぎない。
非言語のコミュニケーション――しぐさ、視線、愛情表現、喧嘩――も重要だが、個人的葛藤は、よくも悪くも会話を通じて生まれるのがふつうだ。
(P441より引用)

ここで言う「個人的葛藤」とは、恋愛や家族内の問題等、「個人間の親密な関係における葛藤」を指しています。
この種の葛藤は会話を通して生じることが多いので、「セリフを中心とする媒体」である演劇で描くのに適している、と著者は述べています。

もちろん映画にもセリフはありますが、演劇の方が個人的葛藤を描きやすい理由として、著者は以下の点を挙げています。

劇作家には、映画の脚本家には許されないことが許される――生身の人間がおよそ言いそうもない台詞を書けるのだ。
詩的な台詞を書くのはもちろんのこと、シェイクスピア、T.S.エリオット、クリストファー・フライのように、詩そのものを台詞として使って、個人的葛藤の表現をどこまでも高めることができる。
また、役者の生の声が微妙なニュアンスや間を伝え、さらに豊かな表現が生まれる。
(P442より引用)

映画では一般に、登場人物のセリフに自然さが求められますが、演劇ではリアルとは言えないセリフ、現実世界では言いそうもないセリフを使って、個人的葛藤を豊かに表現することもできる、というわけです。


映画は、社会や環境のなかで懸命に生きようとする人間の姿を、圧倒的かつ鮮やかなイメージで描くことができ、非個人的葛藤をドラマ化するのにすぐれている。
この点で、演劇や小説はかなわない。
『ブレードランナー』のひとコマを切りとって、世界一の小説家にその場面を文章にするよう頼んでも、いたずらにページを費やすだけでけっして本質をとらえることはできないだろう。
(P442~443より引用)

「非個人的葛藤」という言葉は、「社会制度や環境に対する葛藤」を意味しています。
映画は映像を用いることで、演劇、小説に比べて膨大な量の情報を表現でき、「社会制度」や「環境」といったものを効率よく、視覚的に表すことができます。
「演劇、小説に比べて、世界観を表現しやすい」と言い換えることもできると思います。


このように媒体ごとの特徴を示した上で、著者は、小説、戯曲を映画化することの難しさを以下のように述べています。

ここで脚色の問題を考えよう。これまで何十年にもわたって、文芸作品の映画化権のオプションを取得するために膨大な額の資金が投じられてきた。
そして、脚色をまかされた脚本家は作品を読んで、走りながら夜の闇に向かって叫ぶ。
「何も起こってないじゃないか! 何もかも主人公の頭のなかで完結してる!」
(P443~444より引用)

これは小説原作の映画企画における、”あるある”だと私も思います。
例えば、企画者は原作小説に心惹かれ、「面白い! 何としても映画化を!」と言っているのだが、実はその人が面白く感じているのは内的葛藤の描写ばかりで、脚色を任された脚本家からすると、小説内に二時間の映画になるほどの出来事が起きておらず、頭を抱える……といったことが起きることがあります。

そこで脚色の第一原則はこうだ。
原作の小説や戯曲が純粋であればあるほど、映画は惨憺たる出来になる。
「文学的純粋さ」とは、文学的にすぐれているかどうかを示すものではない。
純粋な小説とは、内的葛藤のレベルに焦点が絞られた作品のことで、ことばを縦横無尽に駆使してストーリーの発端、展開、クライマックスを描くので、他者や社会や環境といった要素が占める割合はあまり高くない。
(P444より引用)

この前提で、著者は脚色について以下のようにアドバイスしています。

それでも脚色をしたいのであれば、「純粋」な文芸作品から少し離れ、人生の三つのレベルの葛藤すべてが描かれていて、しかも非個人的葛藤を中心とするストーリーを探すことだ。
(P444より引用)

「三つのレベルの葛藤」とは、「内的葛藤」「個人的葛藤」「非個人的葛藤」を指しています。

脚色をするとき、まず、メモをとらずに作品を徹底的に読み込み、その精神を自分のものにする。
物語の社会に親しんで、人々の表情が読みとれるまで、つけたコロンの香りが感じられるまで、選択も設計もはじめてはならない。
自分でゼロから書くときと同じように、物語の世界を神のように熟知すべきであり、その宿題は原作者がすませているなどと考えてはいけない。
(P445より引用)

脚色の第二原則は、積極的に再考案をすることだ。
脚本家は原作の精神を残したまま、映画のリズムでストーリーを語らなくてはならない。
(P445より引用)

「積極的な再考案」を行う際のポイントとして、著者は以下のようなことを挙げています。

・まずは小説内の記述順と関係なく、出来事を時系列順に並べ、必要に応じてシーンの削除、追加をする。
・小説の地の文で描かれている登場人物の内面を、映画ではいかにして「表」で描くかが重要。これができるかどうかで作品の成功か失敗かが決まる。
・この映画は原作と異なる、と言われることを恐れない。

脚本家が頻繁に受ける誤解として、「小説等の原作があるならば、脚本家の仕事は楽」というのがありますが、著者の意見をまとめると「脚本家に、オリジナルストーリーが描ける筆力がなければ、脚色もできない」言って良いでしょう。

原作がすぐれていて、映画に適した長さであったとしても、映画という芸術の性質上、再考案が必要になることが多い。
戯曲『アマデウス』の映画化にあたって、監督ミロス・フォアマンは、脚本も手がけた劇作家のピーター・シェーファーに「きみはわが子を産みなおさなくてはならない」と言ったという。
(P446より引用)


【メロドラマの問題】

「この脚本はまるでメロドラマだ」という批判を避けるため、多くの脚本家が情熱的で迫力のある見せ場を書くのを控えている。
そして、最小限のことしか起こらない話を書く。それが洗練されたストーリーと考えてのことだが、まったくばかげている。
人間がみずからおこなうことでメロドラマ的なものなど何もないし、人間はどんなことでも成しうる。
(P447より引用)

ここでいう「メロドラマ」とは、「通俗的で、表現が大袈裟なドラマ」といった意味と理解しておけば良いと思います。

メロドラマは、誇張表現ではなく動機不足から生まれる。
大げさな描写をするからではなく、登場人物の欲求があまりに乏しいからだ。
出来事には原因があり、原因と同じ力を持つ出来事しか起こらない。
動機が行動と釣り合っていないと、観客はそのシーンをメロドラマ的だと感じる。
ホメロスやシェイクスピアやベイルマンも激しいシーンを書いたが、だれもメロドラマ的だとは言わない。
登場人物にじゅうぶんな動機があるからだ。
(P447~448より引用)

「出来事には原因があり、原因と同じ力を持つ出来事しか起こらない」という説明が非常に分かりやすいと私は感じました。

例えば書き手が登場人物に突飛な行動を取らせると、「普通はこんなことしない」というフィードバックを受ける場合があります。
そういった際に書き手は、指摘を咀嚼せずそのまま受け入れる(=登場人物の行動を常識の範囲内に収める)のではなく、まずは「行動に見合った動機を描けているかどうか」を見なおすべきだ、ということなのでしょう。

【穴の問題】

「穴」がある場合も、観客の信頼を失う。
動機ではなく論理に欠け、因果関係の鎖の一部が欠けている状態だ。
しかし偶然と同じように、「穴」も人生の一部である。
原因のわからない物事が起こるのは日常茶飯事だ。
人生について書いていれば、ストーリーにひとつやふたつ穴があってもおかしくない。
問題は、それをどう処理するかだ。
(P448より引用)

非論理的な出来事をつなぐことで穴が埋まるなら、そうすればいい。
だが、そうするには、論理の整合性をとるためだけに新たなシーンを挿入しなくてはならないことが多く、それはそれで穴と同じくらい不自然だ。
その場合は、こう考えよう。観客は気づくだろうか?
(P448より引用)

ストーリー展開に明らかな矛盾があったり、ストーリーの基盤となる設定がぐらついていたりすれば、観客はその作品を心から楽しむことができません。
とは言え、矛盾の解消や設定の説明にばかり時間を費やすのも、明らかな「穴」があるのと同様に不自然ですし、書き手が認識している「穴」に、観客は気づかない場合もある、と著者は言います。

スクリーンではストーリーがどんどん流れていく。
穴のあるシーンが流れても、観客はまだその時点で、たった今起こった出来事が論理的ではないと判断できるだけの情報を持っていないかもしれないし、展開が早くて気づく間もないかもしれない。
(P448より引用)

「観客が気づかない穴」の例として、著者は映画『チャイナ・タウン』の登場人物アイダ・セッションズのセリフを挙げています。

アイダ・セッションズの職業は女優で、本作のヒロインのイヴリン・モウレーのふりをして、主人公の探偵J・J・ギデスの前に現れます。
そのアイダが、殺人事件に関わる重要な手がかりをギデスに教えるというシーンがあるのですが、ここが「穴」だと著者は言います。
アイダは金で雇われてイブリンのふりをしているに過ぎず、そのような人物が重要な手がかりを握っているのは不自然、というわけです。

ですが、作品内で「アイダは金で雇われた女優だった」と明かされるのは、アイダがギデスに手がかりを教えてから一時間半が経過した後です。
観客の多くは、「一時間半前のシーンで、アイダがギデスへの電話で何を話したか」を詳細には覚えておらず、「穴」には気づかない、と著者は言います。

観客は気づかないかもしれないし、気づくかもしれない。
では、どうすればいいのか。
気の小さい脚本家は穴に土をかけて気づかれないことを祈るが、この問題に毅然と立ち向かう脚本家もいる。
穴を観客に見せてから、穴ではないと否定するのだ。
(P449より引用)

この例として著者は、映画『カサブランカ』の登場人物フェラーリの行動を挙げています。

「拝金主義者のフェラーリが、ヒロイン・イルザの夫のラズロに手助けをしたにも関わらず、見返りは求めない」というシーンがあり、脚本家はフェラーリにこんなセリフを言わせています。

「なぜこんなことをしているのか、自分でもわからない。何の得にもならないのに……」
(P449より引用)

脚本家は「フェラーリは衝動的に良いことをしたくなったのだ」と、あえて「穴」を示すようなことをしているわけです。

人がときに自分でも説明のつかない行動をとることを、観客は知っている。
そしてフェラーリの台詞にうなずきながら、胸のうちでつぶやく。
「本人にも理由がわからないのか。そうか。さて、つづきを見よう」
(P450より引用)

観客が作品世界に引き込まれている時は、このような荒業っぽいことも通用する、と私も思います。
逆に作品に引き込まれていない観客は、「理屈が通っていない」「整合性が取れていない」といった点にばかり注目する傾向があります。
つまり自作に対して「穴」の指摘をたくさん受けた際には、論理の穴を埋めようとするだけでなく、「観客の心を捉える」ということに対してより注力しなくてはならないのでしょう。

☆「第4部脚本の執筆 17 登場人物」に続く

****************
脚本、小説のオンラインコンサルを行っていますので、よろしければ。

****************
※このブックレビュー全体の目次は以下の通りです。
第1部 脚本家とストーリーの技術
(1)ストーリーの問題

第2部 ストーリーの諸要素
(2)構成の概略
(3)構成と設定
(4)構成とジャンル
(5)構成と登場人物
(6)構成と意味

第3部 ストーリー設計の原則
(7)前半 ストーリーの本質
(7)後半 ストーリーの本質
(8)契機事件
(9)幕の設計
(10)シーンの設計
(11)シーンの分析
(12)編成
(13)重大局面、クライマックス、解決

第4部 脚本の執筆
(14)敵対する力の原則
(15)明瞭化
(16)前半 問題と解決策
(16)後半 問題と解決策
(17)登場人物
(18)ことばの選択
(19)脚本家の創作術

スキ♡ボタンは、noteに会員登録してない方も押せますよ!

Twitterアカウント @chiezo2222




この記事が参加している募集

コンテンツ会議

noteで全文無料公開中の小説『すずシネマパラダイス』は映画化を目指しています。 https://note.mu/kotoritori/n/nff436c3aef64 サポートいただきましたら、映画化に向けての活動費用に遣わせていただきます!