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読書感想文動画:田上孝一『99%のためのマルクス入門』晶文社

この記事は、以下の動画の原稿です。

この記事は有料ですが、ほとんど同じ内容がYouTubeにて無料で視聴できます。
動画よりも文字で読みたいという方向けです。

また、発表用の原稿という性質上、言葉遣いや体裁が整っていませんが、ご容赦ください。

有料とはいえ、300円と安く設定してますので、支援の意味でもご購入くださると励みになります。ご満足いただけなければ返金も可能です。



この動画で、マルクスという哲学者のエッセンスがずばりわかる。はず。

みんなは共産主義やマルクスについてどういうイメージだろうか。正直、あまりいい印象を持っていないんじゃないか。自分もそう。だから、そういう人向けの話をする。

この本、ほかのマルクス入門本(たとえば斎藤幸平さんの『人新世の資本論』とか)と比較して、そこまで爆発的に評判や人気を得ているわけではないけど、マルクスに詳しい界隈ではめちゃめちゃ評価されている良書。

自分は全然マルクスについてはエアプすらできないほど知らないんだけど、まあマルクスについて動画で話すのは正直怖いんだけど、それでも今からする話は、そんなひどい誤解はないはず。とにかく、自分のようにマルクスを全然知らない人でも読める本だってことは保証する。

じゃあこの本読むとどうなるのかって話なんだけど、マルクスや共産主義の理論を知るだなんて、よっぽど政治に興味がある人じゃないとそもそも知りたい動機がないと思う。だけど、政治に興味がなくても、この本を読むと、マルクスって、共産主義って、おもしろい話してそうだぞと感じられるはず。

具体的には、ぼくらが持ってる共産主義へのなんとなくのイメージが明らかに変わる。なんか私有財産を否定して、中国やソ連の国家体制で、民衆の弾圧・官僚がえげつない、そんなひどい社会体制。そんなイメージじゃない?

でも、じつはそんなの共産主義ではなかった。社会主義ですらなかったことがわかる。

じゃあ共産主義って何かっていうと、ゲノッセンシャフトなアソシエーションという謎の言葉で表せる。

まあこれはゲノッセンシャフトが自由意志にもとづくって意味で、アソシエーションが組合って意味だから、日本語でいうと、自由意志にもとづく組合ってことになる。さて、これがどういう意味かってのは、この動画の説明を聞けば、おのずとわかってくるはず。課題ですね。ゲノッセンシャフトなアソシエーションとはどういう意味ですか。こういう意味でしょって回答をコメントください。

さて、では本題。

まあ本書は、マルクスはいまだに読む価値があるって話を明快な理由とともに語るんだけど、なぜ読む価値があるのか?

色々理由はあるが、誰にでも馴染みのある話として、人間関係という点に注目したい。

人間関係の悩みに、マルクスが効く!

いやもちろん本書はそんなことは言ってないけど、まあキャッチーなフレーズとしてひとまず言っておく。

でも、そこまで外れてもいないはず。
というのも、自然や人間同士で様々な関係を作り出すことは、人間の特筆すべき能力。
そういう関係によって、文明や文化が成り立っているといえる。
しかし、その徳とも言える人間の卓越性が、他方で人間を苦しめてもいる。

それはなぜか?
こう考えてみるといい。

本来は、人間関係で悩むなど、転倒した悩みだと。

「え?」と思うかもだけど、誰かと関係を取り結ぶというのは、もちろん各人の善や幸福のためであって、不利益のために関係を取り結びたいとは誰も思わない。
とすれば、人間関係で不利益や不幸を感じているとは、転倒している関係といってもいいだろう。

で、何が原因かというと、社会。ありがたいことに、俺らのせいじゃない。
お前のせいだとか言われたらツラいが、社会が転倒した人間関係を作り出している。

では、なぜそう言えるか。この辺からマルクスの話に近づいていこう。

まず、我々の社会の土台にあるものは何か?
そのひとつは、経済活動・生産運動。
これは間違いなく社会が維持される絶対条件の1つ。

で、その生産サイクルでは、生産者=労働者が主体になっていない。経営者=資本家が主体。
主体じゃないとはどういうことかというと、生産のために利用されているということ。
つまり、労働者は手段でしかない。これは誰でも共感するところがあるはず。

そしたら、資本家と労働者との関係はどうなるだろう。
対等な人間関係が成立するだろうか?
するはずがない。対等な立場にないんだから。
こういう非対等な関係が、苦しみの人間関係を作り出しているとひとまずは言えそうだ。

でも、だからといって、資本家を悪者にすれば済む話ではない。
ましてや、自分が資本家・経営者になればいいという話ではなおさらない。
そもそも資本家のほうだって、労働者に依存しているわけで、つまり資本家も労働者双方が互いに依存しているのだから。

また、資本家は資本の人格化と言われる。
つまり資本があたかも人格をもったかのように、資本家を支配している。
ならば、資本家も、資本という生産手段に支配されているといえるはず。
さらにいえば、資本家も我々の共同体の一員であって、自分自身の一部であり、仲間であるはず。

まとめると、生産は人間の本質的活動なのに、生産者は主体じゃないし、一見主体に思える資本家も資本に支配されてる。

こうして、人間が作り出したものが、人間を支配する仕組みがいつの間にか出来上がっている。これが大元の転倒。

この様子をマルクスは「疎外」と名付けた。

ならば、もし生産活動から疎外をなくすことが可能ならば、少なくとも経済活動を通じた人間関係は変わるはず。
互いに依存することがなくなり、対等な人間関係を結ぶこともできるかもしれない。

そうであれば、疎外というものの論理を知る意味は大きい。
疎外が何によって生じるのか? 原因は何か?
これを究明するということ。

だからマルクスの思想は、疎外によって転倒した人間関係あるいは根本の人間性の回復というヒューマニズムに核心があるといえる。

疎外とヒューマニズムが、マルクス思想のキーワード。
むしろ疎外とはマルクス哲学そのものであるとまで著者の田上孝一はいう。

ならば、このキーワードを軸にマルクスを理解できるはずだ。

例としてこんな疑問を考えてみよう。

疎外疎外言ってるけど、ずっと今までそういう歴史だったじゃないか?
疎外という概念が当たっているとしても、それは経済活動に必然的に伴うものであって、それを否定することは経済活動の否定すなわち文明・共同体否定になってしまうのでは?

確かに、その通りだ。
これまでの歴史は古代の主人と奴隷関係、中世の領主と農民、近代の資本家と労働者と、ずっと生産活動には非対等な関係・疎外がつきもので、対等な人間関係は形成されてこなかった。

とすれば、疎外が問題だから、疎外をなくしましょうというのは、単なる形式的な解決策・スローガンであって机上の空論かもしれない。
生命は大切だから、ものを食べるのはやめましょうなどと言ってもあまり意味がないのと同レベルかもしれない。
もしかしたら疎外は、解決不可能な、どうしようもない文明社会の業なのかもしれない。

しかし、マルクスはこんなふうなことも言ってる。
歴史は始まってない。我々の歴史は、いまだ前史である。共産主義の樹立をもって本当の歴史、すなわち本史が始まると。

つまりマルクスは、生産活動から疎外を取り除くことは可能だと考えており、さらにそれは必然的に社会構造・社会体制そのものの変更を意味する。その別の社会体制が共産主義と呼ばれるものであって、そういう社会が興ってはじめて歴史と呼ぶに値する人間の営みが開始されるのだと。

どうだろうか。
今のは、疎外という概念をキーワードにすれば、ほかのマルクスの思想や用語もつながってくることを伝えたいための一例だった。

なので、疎外の論理の理解が、マルクスの核心をズバッとつかむアプローチだと言えるだろう。

ちなみに以上の話も以下の話も、本書に直接そう書いてあることではなく、本書の記述から筆者なりの見立てを構成して物を語っているにすぎない。

なので、もしかしたら不正確なところや理解が不十分な点はあるかもしれないが、本書は疎外がマルクスの核心という観点に立ってマルクスを語っていることを伝えるための話として理解してほしい。

ーーー
さて、疎外とは。

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