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冬のお隣さん

「あなたくらいの歳には、思いもしないような
こゝろ持ちだったのよ」

かつて、母はわたしの歳を気にかける毎に
そうつぶやいていた。
じゃあどんな風だったのと聞き返すと
「布に包むように所作を大切にするとゆうこと
所作には季節があり記憶があり、そして時があり
こゝろがあるの。
派手な見格好もよいけれど
すべてを見せてしまわぬように、布の中のものは
使える自分に達したら開きなさい」

祖母から母に譲られたことば、母はわたしへ渡すために
たびたび繰り返し話してくれたのだろう。
母は昨年、突然の病に倒れた。
会いに行くたびに痩せて骨のある位置もかたちも
太さまで目に見えるほどに。

母の澄んだ感性は、わたしとは違うように思える。
しめった道草のにおいだったり夕方の街のかたすみの
においのようないつでもさまよっているようで
明暗をわざとに揺らしているような。
靄のかかった美し気なことばを聞いたのも
ちょうど今頃の時期だったように思う。

「それはそうと、春隣ってよいことばね。
つくづく励まされるわね」
「ほんとうにそう、春が隣で待っていてくれる。
それだけで力が湧くね」
歳を重ねたわたし、今ならきっとそんな風に
こたえられる。そうでありたい。

すうっと流して聞いていたわたしの浅かったこゝろを
思い出している。
至らなかった自分を忘れることはないし、これからも
その時の姿や考えを深く練りながら、母ならこんな時
どんなことばを使うのだろう。どんな話しを
するのだろう。今の素の母に語りかけながら
春隣に触れてゆけたらと思う。

古に春遠からじ、春間近か、春近し…たくさんの
春を思う季語が生まれたのもこの頃。
夢や希望もあたたかさも、家一軒を隔てた向こうに
ありそうな冬のお隣さん。


お隣さん、ごあいさつには間もなくうかがいますね。

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