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“意識”を所有し“意志”を発揮する

意識と意志について、自分なりの考えをまとめておこうと思います。そのために考えたのが“遺伝子”について。

生物は遺伝子の乗り物なんていう話があります。遺伝子は自らをコピーし受け継いで行こうとするプログラムが組み込まれていて、そのプログラムを実行するために生物という乗り物を作った。みたいなこと。
それは生物にとっては、子孫を残すことであったり、生きようとする力みたいなことかも知れないですが、同時にそれは遺伝子によって運命付けられた“遺伝子の命令”みたいなものだと思うのです。
そして、重要な点は、その命令があるからこそ、それに“逆らう”という“反対の方向性”が生まれるということ。

まるで束縛があるから“自由”が生まれるようなものだなと思います。制限がありその制限を離れることによって自由を感じたり、なんでも出来る状態だったのに制限を加えられることによって初めて自由であったことを実感できるような。それは表裏一体の考え方で、どちらか一方だけでは存在出来ない。
だから、遺伝子の命令が存在するが故に、同時にその命令に逆らうという方向性が同時発生してしまう。

でも“逆らう”という方向性が生まれたからといって、基本的に生物はその遺伝子の命令には逆らえない。でも人間は唯一逆らうことが出来る。それが“意識”で、意識とは“書き換える力”なんだと思うのです。

そのことを「火」から考えてみます。
生物は基本的に火を恐れる。火があれば逃げるし、離れるし、恐怖する。
でも、人間は火を恐れるだけではなく利用することが出来る。寒い時に体を温める焚き火にすることもあれば、料理をするためのある種道具にすることも出来る。つまり、“恐れるものとしての火”を“暖めるものとしての火”に書き換えることが出来た。生物はどれだけ進化しても、火を恐れるものとして認識していたが、人間だけが火に対する考え方を“書き換える”ことが出来た。

何故人間だけがこんなことが出来るのか?それはわからない。
ただ、どうやら3つの要素によってそれが可能になったのではないか?という話がある。
・大きな脳
・社会性(コミュニケーション・言語)
・手
これら3つを獲得した唯一の動物が人間であると。
例えば、
イルカは大きな脳と音を使ってコミュニケーションをとる社会性を持っているが手は持たなかった。恐竜は大きな脳と手はもっていたが社会性は持っていなかった。でも、人間はその3つを持っていた。そして、意識を持つようになった。何故3つを獲得した人間だけが意識の獲得に結びつくのかは分からないけれど。

さて、こんなような“書き換える力”が“意識”なんじゃないか?という話なのです。だから、遺伝子の命令があることで、それに逆らうという方向性が生まれ、実際に逆らうことも“出来る”のが人間なんだと思っています。

しかし“出来る”と言っても、実際に“する”かどうかは別の話。つまり、意識というものは、あくまで“力”なんだと思うのです。“力”とは何かをなすための能力ではありますが、その力を“どう使うか?”ということとは別の話。

だとしたら、“意志”とは意識の“使い方”の部分なんじゃないか?と思ったのです。

生きることは辛いこと。お釈迦さんが言うように「一切皆苦」思い通りに行かないことが人生だ。だって1人の人間が出来ることなんてそりゃ小さいことだから。技術によって出来ることは増えていくかも知れないけれど、生まれてきた身体を交換することは難しいし、死ぬことを変えることは難しい。産んでくれた両親を変えることだって難しい。そこに辛い出来事があるならば人生はとても辛いものだ。でも「事実(出来事)」は変えられないけれど「認識」は変えられる。苦を変換する力がある。それが意識だった。
なら“意志”の力はその認識を“どう変える”か、だ。「苦を幸せに変換するか?」「苦を試練に変換するか?」「苦を楽しみに変換するか?」どのように変換するか?ということは選べる。苦を苦のまま受けとるか?苦があるから幸せを感じられるととるか?その使い方を私は“意志”と呼びたいのです。

でも、どうしたって受け入れられない現実があるならば「認識を変えるだけで何も変わらない!そんなことは綺麗事だ!」と言うのも事実でしょう。でも、それがどんな綺麗事であったとしても、認識を変えることが出来る力として“意識”という能力を人間が持っているのも事実なんだと思うのです。

この意識と意志の話から何が言いたいか?と言うと。

“生きる意味は如何様にも変換出来る”のだということ。
例えば、生きる意味を
・子孫を残すため
・自己の幸せを追求するため
・意味なんかない
みたいにどんな風にも変換可能。
生きる意味はないかも知れない。でも、“意識”の力で遺伝子の命令を新たな生きる意味に変換することが出来る。そして“意志”の力で「どんな生きる意味にするか?」という方向を自分で決めることが出来る。そんなことを思うのです。

そして、こんなことも思います。
認識を何にでも変換出来るということが、人間が持つ“自由”の力だということ。
だから、社会がこの力を制限するようなことはやめてほしいと思う。例えば「子供は作るべきだよ」みたいな自分の生きる意味を押し付けたり、自分の価値観や考えが正しいと押し付けたりして、自由を制限する。そうではなくて、社会には“自由を守るための制限”をしてほしい。そんな事をぼんやり考えながら、私自身も他者に対して制限してしまわないように気をつけたいなーと思うのです。

さらに、
誤解されたくないのは、生存本能のような遺伝子の命令に逆らえるんだから「死んだっていい?」という話ではないということ。
私は、人間は自由だからという理由で、自分の子供に「別に生きなくてもいいよー」なんてことは言いたくない。
生きることは苦しいかも知れない、けど、生きることは楽しくもあるんだと言いたい。そんな話は過去にこちらの記事で書いていました。

※ この記事は、真木悠介『自我の起源』を自分なりに整理したという側面もありますので、そのことを最後に書いておきます。

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