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【note版】『杉並区長日記 地方自治の先駆者 新居格』

戦後初めての公選(一般有権者の投票による選挙)で選ばれた杉並区初の区長・新居格(にい いたる)。「天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から」。この文が掲載されている『杉並区長日記』のテキストデータを「note版」として有料公開します。書籍版も好評発売中です。
[おことわり]
この「note版」は虹霓社刊『杉並区長日記 地方自治の先駆者 新居格』のテキストデータを使用していますが、題名がない日記や脚注・ルビ等を省略しています。また、書籍版に収録されている新居の生涯をコンパクトにまとめた小松隆二氏の「〈小伝〉〝地方自治・地方行政の鑑〟新居格の生涯と業績ーー典型的な自由人・アナキスト」および大澤正道氏「〈エッセイ〉新居格と「世界の村」のことなど」は割愛しています。

新居 格(にい いたる 1888-1951)
 徳島県板野郡斎田(現鳴門市)生まれ。徳島中学、七高を経て、東京帝大を卒業後、読売、大阪毎日、東京朝日の各新聞社で活躍。退社後、数多くの雑誌に執筆し、作家、評論家としての地位を築く。創作集『月夜の喫煙』をはじめ、著作も相次いで刊行。「左傾」「モボ」「モガ」などの時代の流行を上手く捉えた造語を生み出す。
 1920年代半ばからはアナキズム陣営の先頭に立って評論活動を行う。また、協同組合運動(生活協同組合で知られる賀川豊彦は従兄弟)にも積極的に関与したほか、バール・バック『大地』を翻訳するなど、幅広い活動を見せた。時代が悪化する中でも、できる限り戦争協力は避け、あえて街や暮らしなどの日常を書くことで、ささやかな抵抗を試みた。敗戦を迎えたのは疎開先の伊豆長岡。
 戦後すぐ東京西部協同組合連合会の理事長に就任したほか、日本ペン・クラブの創設では中心的役割を演じる。1947年、日本一の文化村を目指して杉並区長に立候補し、当選。しかし、健康がすぐれず、また区議会や行政に失望してわずか1年で辞任。その後も病魔と闘いながら文筆活動を精力的に続けるも、51年に脳溢血のため永眠した。享年63。
 本書の元になった新居格著『区長日記』は学芸通信社から1955年に刊行された。

区長日記

区長はスタンプ・マシンなり

わたしは、当選し就任すると早速、議長、副議長のところへいつ挨拶に行きますか、ときかれた。わたしはもちろん、「ノー」とはっきり答えたが、何といっても民主化は掛声だけの話であって、ちょうど向い側の郵便局が壁の色を黒からクリームに塗りかえただけで中味は少しも変わってないのと同じだと思った。
 いまの役所は陳情政治である。平野農相には十三人の秘書がいて、毎日二百人からの陳情者をさばいているそうだが、わたしの私宅にも日曜日など三十七人やってきた。朝から昼食ぬきで夜十二時までかかったが、陳情さえすれば事がうまく運ぶというしきたりには問題があり、これでは行政の構想をねる暇もない。
 情実や金が幅をきかせているのも不愉快な話だ。ある日も、ある土建業者が、知人の紹介だといってやってきて小学校の工事を請負わせてくれと云う。区長を情実取引の周旋屋位に思いこんでいるらしいので、とんでもないと追い帰したが、都への転入にしても品川が千円、杉並が六百円の相場だときいて、わたしは恐れ入ってしまった。
 とにかく役所に染み込んでいる因襲と常識とを、まず打ち破らなければ駄目だ。マンネリズムだけで少しも新鮮味がない。宣伝にしても役人の頭脳から出るのは、楽隊や万歳をトラックにのせて「税を納めましょう」を繰り返す位しか出来ないのだから、「なんなら、おれがサンドウィッチ・マンでもやろうか」と云ってやった。区議会に予算書を出した時も「三十五秒で作るから」と前置きをして「二世紀もさきを考えて組んだ予算だからずさんな点もあるが、今どきずさんでない予算なんか有り得る筈がない」と云ったら「大変な区長だ」とえらく評判が悪かった。
 区政などは政府や国会の真似をして格式ばるのを止め、もっと気軽にフレッシュにやるべきだと思う。いろいろやってみたが、常識的お役人にはわたしのクリエイティブ・センス(創造的常識とでも云って置こう)はどうも分からないらしい。
 元村長だったルナールの日記を読んでみると、公文書を書くのが一番嫌いだと書いているが、うず高く積んで持って来られる書類に判こを押すのは全く閉口する。わたしは憤慨する。わたしは単なるスタンプ・マシンではないからだ。何でも彼でも、上役のところに判こをもらいにやって来る。とりようによっては、これは責任を上役になすりつけることでもあり、上役が部下を信頼せず監視していると云えることだ。これでは伸びのびと能率ある仕事は出来ない。おのおののポストで良心と責任をもって処理するように改めるべきであって、受付の失敗が形式的に区長のところまで責任が廻ってくるなんて、絶対に間違っていると思う。

文人の眼・官僚の眼

都庁へ出掛けたついでに銀座へ出た。村松梢風君に逢う。
 「新居が村長になったのはいい。面白いよ」
と、彼はわたしにいった。岸田國士君も同様、文芸界の友人知人の見るところはそうであるのに反し、一般世間の人たち、わけても官界、政治界に属する人たちは、参議院議員の方をやればよかったのに、という。
 わたしはその二つの物の見方を考えてみた。
 文人たちは、人間を、人生を、生活を、より多く具体的に見る。それにたいして、後者の世界に属する人たちは、上だの、下だの、大小だのといった世俗的な標準によって物事を見るからではあるまいか。
 わたしも文人たちの物の見方がすきだし、それにわたしは小地域民主化論者でもある。
 「ジュール・ルナールも村長だった。しかも、君とは同じぐらいの年配で」
と、文芸界の知人はいった。しかし、わたしはルナールの村長の方がうらやましい。というのは、雑務にわずらわされることがないであろうから。池本喜三夫君の『フランス農村物語』をよむと、その国の村長は俸給をもらわない。「名誉職だアね、俸給をもらっちゃなンねえ」という。その代り、てんで役場に顔を出さない。フランスの村役場で有給なのは、小使だけだとのことだ。そんな村長でわたしはありたい。村といっても、杉並村、いや、杉並区はそんなわけにはゆかない。全国で十指をくっするほどの大都市である。それだけに雑務が多いのだ。それだけに事務をしらないわたしには、苦労の種らしい。それが早くもわたしをおびやかしている。

大臣以上の村長さんを

天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである。
 美しくりっぱな言葉をならべて、いかに憲法だけは民主的に形作っても、日本人の一人々々の頭の中が、相変らず空っぽであり、依存主義であり、封建的であるのでは、なんにもならない。わたしは、日本中のあちこちの村に大臣以上に立派な村長ができたり、代議士以上に信用のできる村議会議員がぞくぞく出てくるようでなくては、本当の民主主義国家の姿ではないと思っている。 
 農村文化の問題についても、わたしはまず小地域から積みあげてゆくことを望む。まず自分を、そして自分たちの住む部落や村の生活を明るく清く美しく楽しくするには、どうしたらよいか、それを考え究めるところから、本当の農村文化の芽が盛り上がって来るのではないか。

〝陳情政治〟へ思う

わたしのオフィスには、各種各様の人たちが訪ねて来る。そして、いろいろのことをいい、また、頼んでゆく。それもわたしを疲労させる。わたしは陳情政治なるものについて何んとか考えなければならぬとしみじみ思った。
 知合いのマダムが花をもって来てくれた。わたしの部屋付の娘さんが、それを花びんにさして、窓際に置いてくれた。
 その部屋には、頼母木桂吉の揮毫にかかる扁額がかかっている。「至誠奉公」などというマンネリズムの文字はわたしにも好ましく思われなかった。その代りに、友人の画家のだれかに芸術的感触のゆたかな絵でも描いてもらって、わたしの部屋に、もっと文化的色調を加えたいものだ、と思う。

面白くない〝登庁〟

役所に出かけるのを、新聞などで、登庁といっている。その表現は面白くない。登るとは低いところから高いところへゆくという意味がある。で、登庁という文字は封建的な臭味がつよい。まだ、出庁の方がましだ。だが、庁という字も感じがわるい。何とか民主主義にふさわしい適切な表現があってもよさそうに思った。
 そんなことを考えながらオフィスに行った。
 街景は春によって彩られていた。花で、若芽で、太陽の光線で、はだにやわらかい風で。
 今日が土曜日だったのに、わたしは、それを忘れて弁当をもって行った。午鐘が打って早速退出。帰って、トーマス・マンの『シータの死』をよみ出した。

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