不確定な部分について 1

最近よく、ノマドワーカーやフリーランス等の「自由な生活」を目指している人を見かけます。そしてその「自由な生活」をしている人はしきりにこっちへおいでと手招きしています。まるで自分と同じ環境の人を増やさないと死んでしまうかのように。

あるフリーランスの方は、「自分の人生を他人に支配されたくないから」この仕事を続けていると言っていました。しかし、わたしにはその自分で全てを支配する人生に何か恐怖心を抱くんです。

なにか独りよがりな妄想の中心を突き進んでいるように映るんです。



ノマドワーカーやフリーランスの仕事のにあこがれる要因の一つには、時間や場所の制約を受けないという点が挙げられます。確かにそれは現代の働き方として魅力的で、ワークライフバランスだって取りやすいでしょう。しかしこの特性は同時に、集団意識やオープンなコミュニケーションを阻害する要因となります。


集団をチームワークとチームプレーという側面から見たとき、個々の能力をかき集めるというチームワークは機能しても、集団がスクラムを組むようなチームプレーは機能しません。和して同せずという言葉に象徴されるチームプレーは和す、つまり調和する能力を磨かなければ十分な効果を発揮できないということになります。そうだとすれば、ノマドばかりを探求し続けた先にある「どこでも仕事ができる」状態の人は、才能や圧倒的な能力を持った強い個人を除いて、「どこにでもいる替えが効く」人として社会に消費されてしまうのではないでしょうか。個人が情報を発信できるようになるということは、情報の全体量が増え、差別化が難しくなるということと同義です。
もしも一部の成功者だけに強烈なスポットライトを当てて大勢の人の心にある漠然とした不安を煽る動きが続けば、必ず消費され続けて擦り切れてしまう人が出ます。そうなってからでは遅いし、もう手遅れかもしれません。


沢木耕太郎は旅をしてどこでも暮らす能力や自信を付けることについて、「それは同時に、そこに居る理由がなくなってしまったということ」だと言います。
そうなってしまったら、あまりにも残酷ではないでしょうか。


これが私の抱いた恐怖心のひとつでした。

そしてもう一つは、集団に自己の人生における一部の決定権を持たせることの効果についてです。


今日はここまでにします。


読んでくれてありがとうございました。
またどこかで。



日々是口実






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