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北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史4・R&B(ソウルミュージック)編

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北米における20世紀から現代までのブラックミュージックの歴史5・ヒップホップ編+総括はこちら

※以下の文章は大学時代の卒論に一部動画等を加えたものです。2013年に書いたものなので一部稚拙且つ古い部分も有るかもしれませんがご容赦ください。

・R&B (ソウルミュージック)について

・発祥1
R&B(リズム・アンド・ブルース)の源流にはルイ・ジョーダンキャブ・キャロウェイ等によるジャンプ・ブルースがある。ブルースに相通ずるシンプルな曲の構成、ジャズの娯楽性をより強調したスタイルで1940年代から1950年代前半に人気を博したジャンルである。そのジャンプ・ブルースの歌手の一人であるロイ・ブラウンの歌は

「歌い方そのものにはゴスペルの高揚する部分が少し出てきています。だから彼は最初のソウル・シンガーともいわれていて、レイ・チャールズやジェイムス・ブラウンの橋渡し的存在」(ピーター・バラカン (2008) 『魂のゆくえ』 アルテスパブリッシング)

と捉えられており、ジャンプ・ブルースがR&Bと直結したものだという事実をはっきりと浮かび上がらせている。

・ブルース、ジャズ、R&Bの交差点に立つエンタテイナー、ルイ・ジョーダンの「Caldonia」

・最初のソウル・シンガーとも捉えられるロイ・ブラウンの「Good Rockin' Tonight」

・発祥2
R&B、ソウルミュージックの先駆者としてまず挙げられるのはレイ・チャールズである。元々ジャズとポップスを行き来していたレイは、1950年代からゴスペル形式の曲に俗世界の歌詞をつけた曲をヒットさせ、「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」(I’ve Got a Woman, 1954)、「ディス・リトル・ガール・オブ・マイン」(This Little Girl Of Mine, 1955)、R&B形式のパート1、ゴスペル形式のパート2という2部構成の「ホワッド・アイ・セイ」(What’d I Say, 1959)、スタンダードナンバーとなる「ジョージア・オン・マイ・マインド」(Georgia on My Mind, 1960)などが代表曲として挙げられる。こういったゴスペル形式をベースにしたポピュラーな楽曲は後にR&B、ソウルミュージックと呼ばれ、その礎を築いたのがレイなのだ。

・エルヴィス・プレスリーもカバーしたレイ・チャールズの「I’ve Got a Woman」


次にゴスペルとR&B・ソウルミュージックが深く結びついた歌手として欠かせないのがゴスペルの項目でも紹介したサム・クックだ。1950年に一流ゴスペル・カルテットのソウルスターラーズのリードシンガーとして抜擢されたサムは、その新人らしからぬ歌唱力と若さとビジュアルを武器にゴスペル界のアイドルとして君臨するようになった。アイドル性を持ったサムの登場はゴスペルの世界では画期的なもので、彼がポップスターになるのは時間の問題だった。1956年頃からポップスの歌手に転向した彼は、「ユー・センド・ミー」(You Send Me, 1957)、映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」(Witness, 1985)でも使用された「ワンダフル・ワールド」(Wonderful World, 1960)、後に公民権運動の讃歌となり、オバマ大統領の演説にも引用された「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」(A Change Is Gonna Come, 1964)といった曲をヒットさせた。

・サム・クックの最高傑作とも言われ、公民権運動の讃歌となったサム・クックの「A Change Is Gonna Come」

そしてR&B・ソウルミュージックを語る時欠かせないもう一人の人物が「ソウルのゴッドファーザー」と称えられるジェイムズ・ブラウンである。前述のレイ・チャールズと同じように世俗的内容のゴスペルソング「プリーズ、プリーズ、プリーズ」(Please, Please,Please,1956)でデビューすると、「トライ・ミー」(Try Me, 1958)のヒットで成功を手にした。彼はシンガーとしてだけではなく、自ら率いるバンドのリーダーとしての才能にも恵まれ、

「あの歯切れの良いホーン・セクション(管楽器)をはじめ、それまでメロディー楽器として考えられていた楽器を、みんなまるで打楽器のように使って、従来の曲の型をとっぱらってしまいました。」(同上)

とされる。そしてこれが当時は認知されていないもの、後に60年代後半以降R&B・ソウルミュージックの最先端を行く音楽=ファンクのルーツとなるのだ。また、「セイ・イット・ラウド」(Say It Loud-I’m Black and I’m Proud, 1968)では、

「公民権運動の最中、黒人としてのプライドを呼びかけた象徴的な歌として今日に伝わっている。」(當間麗 (2012) 『アメリカン・ポピュラー・ミュージック』DTP出版)

この事からも、ゴスペルの項目でも紹介したマヘリア・ジャクソン同様、如何にジェイムズが黒人社会に影響力を持っていたかが伺える。ライブにおける柔軟な体を生かしたダンス、スプリット(股割り)といった優れたパフォーマンスでも知られる彼は、マイケル・ジャクソンプリンスにも影響を与えた。

・ダンスミュージックとしての側面も持ちながらメッセージ性も強いジェイムズ・ブラウンの「Say It Loud-I’m Black and I’m Proud」

・発展1 ( 1960年代)

モータウン

1960年代の音楽界を席巻したのはベリー・ゴーディ・ジュニアが1959年にデトロイトで設立したモータウン・レコードだ。ゴーディはモータウン・レコードの設立を通して黒人の尊厳と自尊心を培うことを目標として掲げ、

「初期のR&Bの影響を排除し、白人好みのポップス志向を強調した。人材育成という点では、レーベル内にインターナショナル・タレント・マネジメントという教養学校を設置し、所属アーティストの言葉遣いに始まり、立ち居振る舞い、振付や衣装などのステージパフォーマンスにいたるまえ都会的で洗練されたスタイルを徹底的に教育した。」(同上)

また、ソングライター(作曲家・作詞家)やプロデューサーにはエディ・ホランドラモント・ドジャーブライアン・ホランドから成るホランド=ドジャー=ホランド、本人もミラクルズというグループで活動するスモーキー・ロビンソンノーマン・ホイットフィールドバレット・ストロングといった優秀な面々を揃え、

「楽曲の採用にはコンペティション(競争制度)のようなものが導入されていて、ソングライター同士をライバル関係におくことで互いを切磋琢磨させた。」(同上)

モータウンの代表的な歌手・グループは映画「ドリーム・ガールズ」(Dreamgirls, 2006)のモデルにもなったダイアナ・ロス&ザ・スプリームスザ・テンプテーションズフォー・トップス、前述のスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズスティービー・ワンダーマイケル・ジャクソンが在籍したジャクソン5等がおり、1960年代から1970年代にかけてヒット曲を連発した。

・モータウン、そして60年代ポップスを代表する一曲、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスの「You Can't Hurry Love(恋はあせらず)」

・現在も活動し、今年2022年デビュー60周年を迎えたテンプテーションズ「My Girl」

スタックス
モータウンが設立されたのとほぼ同じ頃、アメリカ南部のメンフィスではジム・スチュアートがサテライト・レコードを設立し、それが後にスタックスと呼ばれる南部のR&B・ソウルミュージック(=サザンソウル)を代表するレコード会社となる。スタックス、そしてサザンソウルを代表する歌手として挙げられるのは「史上最高のソウル歌手」と称えられるオーティス・レディングだ。歌手としての活動期間は決して長くなく、全盛期の1967年に飛行機事故で亡くなってしまうのだが、白人音楽への好奇心が強く、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」(Satisfaction, 1965)など積極的に白人の歌手・グループの曲をカバーし、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演を契機に黒人層だけでなく白人層をもリスナーとして取り込むことに成功した。またオーティスの周りにはマネージャーのフィル・ウォールデン、前述のスタックスの社長、ジム・スチュアート、作曲家・ミュージシャンのスティーブ・クロッパーと白人も多く存在し、オーティスとスタックスが「黒人と白人の同化」を象徴する歌手と会社だったと捉える事も出来る。

・モンタレー・ポップ・フェスティバルにおけるオーティス・レディングの「Try A Little Tenderness」

・発展2( 1970年代)

ファンク

1960年代後半から勢力を増してきたソウルミュージックは前述のジェイムズ・ブラウンを出発点とするファンクである。ファンクの特徴は

「躍動感溢れる強烈な16ビートが聴き手のボディを高揚させ、ひたすらポジティブな気分にさせる音楽」(安斎明定 (1997) 『Back To Basics 70年代ソウル』学陽書房)

で、70年代以降のファンクの進化・発展を遂げるきっかけを作ったのはジェイムズとスライ・ストーンと彼が率いるスライ&ザ・ファミリーストーンだ。彼のグループには男性だけでなく女性メンバー、黒人だけでなく白人メンバーも在籍し、様々な人種が一緒になる=団結としてのファンクミュージックを展開し、「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」(Dance To The Music, 1968)、「サンキュー」(Thank You, 1969)といった曲をヒットさせた。

・人種や性別の垣根を超えたメンバーで編成されたスライ&ザ・ファミリーストーン「Dance To The Music」

70年代を席巻したファンクグループはアフリカ回帰や普遍的な愛をテーマの歌を煌びやかな衣装やライブパフォーマンスを通じて表現したアース・ウィンド・&ファイアー、黒人の貧困街(ゲットー)で起こる出来事を

「ブラック・ユーモアをたっぷりまぶしながらコミカルに描き、アメリカ社会の“負”の部分を強烈に風刺する」(同上)

ジョージ・クリントン率いる通称Pファンクと形容されるファンカデリックパーラメントという2つのグループ、ジャズやラテン音楽の要素を盛り込んだウォー、ロックに影響を受けたギターと洗練された音を奏でたアイズレー・ブラザーズ等がいる。「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」という曲名から連想されるように、人々を踊らせる=ダンスミュージックとしての要素も強かったファンクは、70年代中盤になるとディスコミュージックとの繋がりを強めていく。

・日本でも人気が高いアース・ウィンド・&ファイアーの「September」

・奇抜な衣装やパフォーマンスでも知られるパーラメントの「Flashlight」

フィリーソウル
 1970年代、R&B・ソウルミュージックの中心地として語られるのはフィラデルフィアである。フィラデルフィアのソウルミュージック=フィリーソウルと呼ばれるこの音楽の立役者は作詞家のケニー・ギャンブル、ピアニスト兼編曲家のレオン・ハフ、そして同じくピアニストのトム・ベルの三人だ。彼らは1971年にフィラデルフィア・インターナショナル(以下PIR)を設立する。フィリーソウルは非常に洗練され都会的な印象を受ける滑らかな弦楽器・管楽器や木管、ヴィブラフォン(鉄琴)といった楽器の多用が音楽的な特徴だ。これにはトム・ベルのクラシック音楽の素養が影響されていると言えるだろう。ケニー・ギャンブルとレオン・ハフの作詞家・作曲家のコンビは様々なグループに楽曲を提供し、ヒットを連発していく。
主なフィリーソウルのヒット曲と歌手・グループは、ビリー・ポールの不倫ソング「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ」(Me And Ms. Jones, 1972)、ゴスペル仕込みの歌が魅力のオージェイズの「裏切り者のテーマ」(Back Stabbers, 1972)、日本でも高い人気を誇るスタイリスティックスの「愛がすべて」(Can't Give You Anything (But My Love) , 1975)、低音が印象的なルー・ロウルズの「別れたくないのに」(You’ll Never Find Another Love Like Mine, 1976)、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツのシンガーとしても活躍したテディー・ペンダーグラスの「クローズ・ザ・ドア」(Close The Door, 1978)等である。

・フィリーソウル、そしてビリー・ポールを代表する一曲「Me And Mrs.  Jones」

・CMでも頻繁に使用されるスタイリスティックス「愛がすべて(Can't Give You Anything (But My Love)」

シンガーソングライター
自分で曲を作り、歌うシンガソングライタータイプのミュージシャンの台頭も、70年代のR&B・ソウルミュージックを語る上では見逃せない。60年代前半に十代の若さで前述のモータウンと契約したスティービー・ワンダーは60年代を通じて自作の曲も含めた数多くのヒット曲を生み出す。その才能は70年代に突入して大きく開花することになる。彼は当時最新鋭だったシンセサイザーという楽器を用いて斬新なサウンドを作り上げ、自らが歌い演奏し編曲・プロデュースした「心の詩」(Music Of My Mind, 1972)、「トーキング・ブック」(Talking Book, 1973)、「インナーヴィジョンズ」(Innervisions, 1973)、「フルフィリングネス・ファースト・フィナーレ」(Fulfillingness First Finale, 1974)、「キー・オブ・ライフ」(Songs In The Key Of Life, 1976)といったアルバムを発売し、これらは現在でも非常に高い評価を得ている。他にはスティービーと同じくモータウンと契約し、社会問題をテーマにしたアルバム「ホワッツ・ゴーイン・オン」(What’s Going On, 1971)で知られるマーヴィン・ゲイ、シカゴで50年代から活動し、70年代には映画「スーパー・フライ」(Superfly, 1972)の主題歌等を担当したカーティス・メイフィールド、ハワード大学でクラシック音楽の勉強をし、ジャズの要素も楽曲に取り込んだダニー・ハサウェイ等がシンガソングライタータイプのミュージシャンと言える。

・スティービー・ワンダーの「セサミ・ストリート」における「Superstion(迷信)」のパフォーマンス

・今日でも強いメッセージ性を持つマーヴィン・ゲイの「What's Going On」

・その後(80年代以降)
70年代後半から80年代へと移るにつれて、録音技術や電子楽器の発達に伴い、R&B・ソウルミュージックはより洗練された音作りがなされ、また好まれるようになり時代の主流となっていく。そしてそれは主にブラック・コンテンポラリーという名称で聴衆に親しまれ、代表的な歌手はルーサー・ヴァンドロスピーボ・ブライソンフレディ・ジャクソンジェイムス・イングラムアニタ・ベイカー等が挙げられる。

・洗練されたサウンドと歌唱が魅力として知られるルーサー・ヴァンドロスの「Never Too Much」

また、70年代から続くファンクの潮流からはミネアポリス出身のプリンスというシンガソングライタータイプのミュージシャンが登場する。彼はモータウンの項目でも紹介したジャクソン5から独立したマイケル・ジャクソンと共に、80年代に入り新たに登場したMTV(ミュージック・テレビジョン)という24時間ポピュラー音楽のビデオを流し続けるメディアを巧みに利用し凄まじい勢いで80年代を疾走していく。マイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」(Beat It,1983)とプリンスの「リトル・レッド・コルベット」(Little Red Corvette, 1983)のどちらかがMTVで初めてへヴィローテーションとなった黒人ミュージシャンの楽曲と言われている。

・80年代を代表するポップスター、マイケル・ジャクソンの「Beat It」

・マイケルの好敵手でもあったプリンスの「Little Red Corvette」

90年代に突入するとヒップホップをベースにした音作り、ラップを盛り込んだメアリー・J. ブライジをはじめとするヒップホップソウルが誕生し、時としてヒップホップとR&Bのジャンルの境界線は曖昧になる。また、ボーイズIIメンジョデシィといったボーカル・グループが再び注目を集めたり、ディアンジェロマクスウェルに代表される70年代のR&B・ソウルミュージックのスタイルを現代的な解釈で表現したニュー・クラシック・ソウルと呼ばれるシンガー達も登場し、2000年代から現在にかけてはアッシャービヨンセアリシア・キーズチャイルディッシュ・ガンビーノザ・ウィークエンド等のスター達による様々なスタイルのR&Bが日々音楽界を賑わせる。近年の楽曲の中で特に印象的なのはチャイルディッシュ・ガンビーノによる「ディス・イズ・アメリカ」(This Is America, 2018)で、アメリカ社会における黒人が抱える様々な問題や状況を歌詞やミュージックビデオで多面的に風刺し話題を呼んだ。また、非黒人ではあるもののブルーノ・マーズは70年代・80年代のR&Bの要素を多く取り入れ、近年は黒人であるアンダーソン・パークとのユニット、シルクソニックでも「スモーキン・アウト・ザ・ウィンドウ」(Smokin' Out The Window, 2021)といったヒットを飛ばしている。一部の聴衆や評論家は現代のR&Bと60~70年代のR&Bを差別化する為に前者をアール・アンド・ビー、後者をリズム・アンド・ブルースと呼ぶ事も今日では多い。それが他の聴衆を混乱させる原因となるのだが、この「曖昧さ」がR&Bの多様性、変化を表しているとも言える。このジャンルがヒップホップらと共に黒人音楽の主流である限り、その進化は常に期待されているのだ。

・アメリカにおける社会問題を曲とPVで表現したチャイルディッシュ・ガンビーノ「This Is America」

・70年代ソウルミュージックへの敬愛ぶりが伺えるブルーノ・マーズとアンダーソン・パークによるグループ、シルク・ソニックの「Smokin Out The Window」

ヒップホップ編は2/1投稿予定です。

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