やっと涼しくなった

 海沿いを走る列車の窓からぼんやりと外を眺める。高い空につられたように明るい硬質な光を放つ海は、夏の間のギラギラした輝きとはまるで違って見える。
 もっとも、今年の夏は、海なんか少しも見ていないんだけどな。
 俺はあいつのことを思い出す。

「ね、明日どっか行こうよ。海とか」
 クーラーの効いた部屋のベッドで思いきり汗をかいた後の気だるい闇の中、あいつは言った。
「え? 海?」
 気乗りしない気持ちが声に滲んだのだろうかあいつはちょっと残念そうに言う。
「海じゃなくてもいいよ。どっか、遊園地とかさ、なんならただドライブだけでも」
「ていうか……ゆっくりしない? 家で」
「えー? だってずっとお家デートばっかじゃん。今年夏らしいこと一個もしてない!」
「いや、昨今夏に下手に出かけたら体に悪いって」
「そんなこと言って、苦手なだけじゃん」
「否定はしない。でも本気でさ、暑い間は勘弁してくれよ。このクソ暑いのに説明会だの研修だのであちこち動き回ってさ、正直休日まで日光浴びる気になれないんだよ」
「えー」
「悪いとは思ってるけどさ、助けると思って、頼む。そのかわりさ、涼しくなったら旅行に行こうよ。きっとその頃ならちったあ就活も落ち着いてるし、秋休みもあるし。温泉とかさ、紅葉見たり、美味いもの食ったり。それともテーマパークとかの方がいい? どこでもいいよ」
「んー。それはそれで行きたいけど」
「予定合わせる、プランも立てる、費用も出すから。な?」
「……絶対だよ?」
「もちろん、絶対。約束する」

(……って、言ってたのになあ)
 俺は窓辺に置いた缶ビールに口をつける。
(結局、他の男と海辺にお泊まりしてたなんてな。どんだけ海行きたかったんだよ)
 もちろん、そんな問題ではないのはわかっている。
 正確には、「そんな問題ですまないのは」と言うべきか。
 つまり、夏の間引きこることしか考えてない俺は、彼女に愛想を尽かされたのだ。
 彼女の言葉を信じるならば、最初は「ほんの軽い気持ち」だったらしい。「ほんの軽い気持ち」で他の男と寝るだけでも大問題だと俺は思うが、まあとにかくそのことは一回きりの遊びにして、あとは何食わぬ顔で俺との関係を続けるつもりだったらしい。
 だが、
「だっていろんなとこ連れてってくれるし。楽しいこと面白いこといっぱい知ってるし。大事にしてくれるし」
 いや、だから秋になったら連れてくって言ってんじゃん、そんなことを言うのもなんだか惨めな気がして、俺は精一杯の虚勢を張って、できるだけクールに、こう言った。
「話はわかった。じゃあな」

 しつこいようだが「ほんの軽い気持ち」で浮気するような女に縋りつく気になれなかったのは本当だ。だがだからと言って、すべてをすっぱりはっきり割り切れるかと言うと。
 涼しくなったらどこに行こうか、旅行だけじゃない、公園や美術館、映画にライブ。泳ぐのにこだわらなきゃ秋の海だっていいもんだ。きっと限定スイーツを出す店もたくさんあるだろう。そんなあちらこちらに出かけてあいつと楽しむことを夢想していた俺の気持ちは、一体どこにやればいいのか。
 せっかくやっと涼しくなったというのに、一緒に楽しむ相手を失ってしまった。そんな虚しさにため息ばかり増える俺の元に、一件のメッセージが届いたのは一週間ほど前のこと。
 それは友人の紡木からのものだった。今実家にいるが、面白いものがあるから見に来ないかと言う。
 いささか唐突に感じはしたが、彼女ができるまでは、つるんで随分遊んでいたのは確か。その「彼女」がいなくなった頃にこうして連絡が来るのが妙にタイムリーな気がして、俺はちょっと笑ってしまった。
 それに、俺は暇だった。
 あいつと過ごす予定、具体的ではないものの、漠然と予期されていた未来、それらが丸々キャンセルとなった今、俺は……そりゃあ卒業研究の準備とか、結局一区切りつくことなどなかった就活の続きとか、その気になればやるべきことは山ほどあったけれども、どうにもその気にもなれず、かといって友達と飲み歩いたりして遊びまくるのもなにかしっくり来なくて、ただぼーっと日々を過ごすしかなくなっていたのだ。
 そんな時に届いた誘いは、ちょっとした救いのように感じられた。
 しばらく日常を離れて過ごせば、少しは気晴らしになるかもしれない、そう思ったのだ。

 何かしらの縁でもなければ知ることすらなさそうな、電車も日に二度停まる以外は素通りする小さな駅に降り、ボロボロの駅舎を出ると、いやに真新しいカーキ色の軽トラがクラクションを鳴らした。見ると運転席から身を乗り出すようにして、左側の窓から紡木が手を振っている。俺は手を振りかえし、そちらに向かった。
「よお、久しぶり」
「久しぶり。よく来たね。乗りなよ」
 俺は言われるまま軽トラの助手席に乗り込んだ。ガタガタと音を立てて、荒い舗装道路の上を車が走り出す。駅前を抜けると、国道の表示のある多少は綺麗な道に出た。ぽつりぽつりと雑貨屋やクリーニング屋が立ち並ぶ間を走り抜けながら、紡木は言った。
「もしよかったら、先に例の「面白いもの」のところに寄ろうと思うんだけど」
「遠いの?」
「それほどでもないよ。あと一〇分くらい。家はそこからさらに五分ってとこ。ほとんど通り道だからさ、先に見てもらった方がいいかなって」
「そっか。うん、任せるよ」
 そう答えてから割とすぐに、紡木は細い未舗装の道へと軽トラを突入させた。ガタガタと言う振動、そして細かな土煙。しばらくは資材置き場や物置のような建物、民家が見えていたが、程なく道は上りになり、周囲にも木々が増えてきた。
「お前ん家、こんな山の上なの?」
 舌を噛まないように気をつけながら言うと、紡木は大きな声で言った。
「うん。別にてっぺんってわけじゃないんだけどね」
 そのまましばらく揺られていいかげん尻が痛くなってきた頃、軽トラは広場のような場所に出て、そして止まった。
 窓から外を見て、俺は眉を顰めた。
 たまたま木が少ないだけの場所かと思ったのだが、どうやらそうではない。周囲の木はみな広場の外側に向かって薙ぎ倒されたように傾いているし、中には倒れている木もある。
「お、おい、これって」
 俺が言うと、紡木はその中心にあるものを指差した。
「あれだよ。あれが落ちてきたんだ」
 俺は目を凝らす。岩? にしては、奇妙に光って見えるが……
「降りてみてみなよ」
 言うが早いか、紡木は自らトラックを降りた。俺もあとを追うように降り、その物体の方へと歩を進めた。
「これ……ただの隕石じゃない、よな」
 自分の言葉が間抜けに響く。
 ツヤツヤした表面の光沢に加え、不自然にシンメトリな形状、明らかに人工的なものとわかる直線的な継ぎ目。サイズは両腕で抱えられるくらいのもので、小さくはあるが、しかし……
「人工衛星かなんかか? それとも……」
 言いかけた俺を、紡木は突然後ろから羽交い締めにした。
「お、おい……」
「ずっと、待ってたんだ」
 紡木が言う。
「この星の気温は高過ぎて、寄生のために短時間外に出ることさえできなかった。いったん寄生してしまえば、宿主の生理機能が許す範囲で生きていけるんだけどね。やっと涼しくなって、手近にいたこの個体に寄生したのはいいけど、今度は他の宿主を近くに呼べなくてね。培地から離れてそう遠くまでは行けないし、かと言ってポッドごと運ぶ手段もないし。宿主の脳神経の情報を読み取って、友人に連絡することに思い当たるまでにも随分時間がかかってしまった。君が最初だよ。何人かに寄生すれば、あとは人口密集地で繁殖して、新たな宿主をここに運んでくることもできるだろう。さあ、いよいよだ。おとなしくしてよ、無駄だから」
 俺は必死で紡木から逃れようとしたが、その人間とも思えぬほどの力に、まったく抵抗することができなかった。やがてその物体が継ぎ目から開き、そこから……その中から……

 全く、こんなことになるくらいなら、暑いうちにあいつと海に行っておくんだったな。

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