Birthday 第一章 庄司明(1)

「なあ、頼むよ」
 飯田勝は拝むように手を合わせて言った。
「やだよ、なんで俺が」
 庄司明は迷惑そうに答える。
 放課後の廊下。部活の準備をして校庭や体育館へと急ぐ生徒、特に目的もなく廊下で立ち話をする生徒、まっすぐ昇降口に向かう生徒。勝と明は最後のグループに属していた……はずなのだが、ずっと明に懇願するような様子を見せていた勝は、突然小走りに前に出たかと思うと、明の前に立ち塞がり、深々と頭を下げた。
「頼む、この通り」
「やめろよ、邪魔だよ」
「そう言わないでさ。助けると思って」
「お前ねえ」
 明は深いため息をつく。
「一人で行く勇気ないなら、呼び出したりすんなよ」
「だってそれは……もう、そんな機会ないかもしれないって思ったらさ」
「だーかーらー、そこまで思い切ったならどうして勢いで一人で行けないんだって言ってんの」
「それは……もちろん行くつもりだったよ、そのつもりだったけどさ、さっきチャイムが鳴ってさあ行くぞって思ったら、急に……心臓が……」
「ったく。小心者なんだから、いっそ手紙で済ませればよかったろうが」
「そんな、男らしいとこ見せたいじゃん」
「だったら男らしく一人で行けってえの!」
「それができたら頼んでねえのよ。代わりに言ってくれとは言わねえからさ」
「当たり前だバカ」
「うん、だから、背中を守る感じで、頼むよ」
「初めて学校に行く小学生じゃねえんだからよ……」
 諦め顔でもう一度ため息をつく明。
「しょうがねえな。ついてくだけだぞ。巻き込むなよ」
「もちろん。ありがとう!」
 勝は明の手をがっちり握りしめて振り回す。
「やっぱり持つべきものは親友だな!」
「やめろ。そうと決まればさっさと行くぞ。先輩待たせるわけにもいかんだろ」
「あ、ああ、そうだな!」
 勝は元通り向き直り、明と共に昇降口を目指した。
(まったく、なんで俺がこんな……)
 明は内心考える。
 今までにも、聞いてはいた。勝が、一つ上の学年の阿部羽美子に憧れている、と言う話は。
 阿部羽美子。そういった話に関心があるとは言えない明でさえ、名前くらいは聞いたことのある有名人。いわゆる学校のマドンナ的存在。特に、ちょうど一年前、生徒会書記に就任した頃から、全校的に名前を知られるようになった。書記というのは決して派手な役職ではなく、会長を中心にした生徒会役員の中ではむしろ地味と言っていいもののはずだったが、そんな中でも人の目を引かずにはおかない凛とした美貌と、折に触れて会長の横に進み出て何やら耳打ちするその様子には、どこか裏から会長に指示をしているかのような風情があり、羽美子は他役員の影を薄くする勢いで、その存在を誇示していた。その上、成績優秀、スポーツ万能、教師からの信任も厚いとくれば、もはや存在自体フィクションではないかと思われるほどだが、多少のやっかみを除けば彼女の優れた特質を否定するような噂はほとんど聞かれず、彼女はほとんど神格化すらされているような様子だった。
 とはいえ、中には校内の噂や色恋の話にあまり興味を持たない、明のような生徒もいる。彼にしてみれば、羽美子の存在は、疑うわけでこそないものの、どこか遠い世界の話のようであった。大変な美人だというその顔すら曖昧にしか覚えていない。生徒総会等の行事で見なかったのかと驚かれることもあるが、はっきり言ってしまうとそういった行事に真面目に参加していたとは言えず、大抵はろくに話も聞かずにこっそり本を読んだり単語帳をめくったり考え事に耽ったりしていたものだから、生徒会役員がどんなメンバーで構成されているかすらちゃんと覚えているとは言い難い。
 その上明には少々へそ曲がりなところがあり、周囲で書記が美人だなんだという声が高まれば高まるほど、殊更に関心を持つことを避けるようになっていた。勝の話だって適当に頷いてきただけだったし、まさかそれほど本気だとは思わなかったのだ。
 それが、生徒会役員の任期が終わり、受験を控えた三年生が自由登校になる、という時期を迎えて、勝は一年奮起して手紙を書いたらしい。放課後、体育館裏に来て欲しいという呼び出しの手紙だ。それを聞いたときは、へえ、やるじゃんと思った。つい流行には背を向けてしまうたちで、恋愛にも疎い明には、そこまでする情熱に対して、少し羨ましいと思うような気持ちもあった。自分が持ちえないからこその憧れ。極めてミーハーに憧れを表明しているだけだと思っていた友人が、思い詰めた顔で「先輩の下駄箱にさ、手紙、置いてきちゃった」と言ったときには、ちょっと見直しさえしたのだ。
 だが、そのあとがこれでは。
(まったく、なんで俺が)
 明はもう一度、胸の内でつぶやいた。

「ごめんなさい」
 顔を真っ赤に染め、絞り出すような声を裏返しながら、やっとのことで告白した勝に対し、羽美子は昨日の天気の話でもするようにさらりと、迷いも罪悪感も感じさせない涼やかな声音でそう言った。
 がっくりと肩を落とす勝。明は内心肩をすくめる。まあそりゃそうか。接点があったわけですらない一つ下の後輩から、唐突に告白されて、OKするべき理由など皆無に違いない。いいところ「まずはお友達から」という、例の決まり文句を頂戴するのがせいぜいであろう。それに……
 明は改めて、頭を下げる勝をクールに見下ろす羽美子の顔を、こっそり伺う。
 美人だとは聞いてたけど、まさかここまでとは……
 よく言われることだが、顔の美醜などというものは、結局個人の好みによる部分が大きい。ギャルが可愛いと思うようなメイクを、古風なタイプが好きな男子は決して認めることはない。逆にギャルが好きな男からしてみれば、そういったタイプは「地味」「野暮ったい」「垢抜けない」などということになる。
 大雑把な好みの傾向についてすらそうだ。ましてより細かな個人の嗜好ともなれば、千差万別というより他ない。
 だが。羽美子は。
「均整」という概念が人の顔という形をとったかのような、完璧なバランス。非の打ち所がない、とはこのことか。だが無機質でも無個性でもないのは、健康的な顔色のせいか、それとも微かな震えを錯覚させる柔らかなふくらみのためなのか。
 例えば平安時代において、美人とはふっくらした輪郭と引き目鉤鼻を特徴とする「おたふく顔」だったと言われる。現代人が美人と感じるものとは大きくかけ離れていると言っていい。だが、そのような極端な差異でさえ、力技でねじ伏せるような、内部からの輝きのようなものを、羽美子の顔は備えていた。欠点があるとすれば、いささか威圧的ですらあるようなその完璧さであろうか。
 クラスの女子に点数をつけるような連中を、どこかで軽蔑していた明でさえ認めざるを得ないほどの、それは圧倒的な美貌だった。
 今まで関心をもたずにいられた自分が、信じられないほどだ。
 その、美しすぎる顔が。その大きな輝く瞳が、ふいに、明の方を向いた。
 一瞬の出来事だった。予期しなかったその視線に、明は射抜かれ、息も止まるのではないかという衝撃に打たれた。
 周囲の時間が止まったようだった。遠くから聞こえていた部活の声、校内放送の音、下校中の生徒たちのたてるざわめき。それらの一切が遠のき、明は今自分がどこにいるかさえ忘れ、身動きがとれなくなっていた。
「あなたは?」
 その口から漏れる言葉。さっきまでは冷たいと思っていた声が、今では天上の調べのように耳に響いた。
「俺は……」
 カラカラに乾いた唇を、明は開いた。
「俺は、そいつの……勝に付き添ってきただけで……」
「名前は?」
「庄司、明」
「クラスメートなのね。この子の。二年生の……C組だったかしら」
「はい」
「そう」
 それだけだった。
 羽美子は「じゃあね」と一言言って、踵を返した。魔法は解け、明は大きく息をついた。
 なんだったんだ、今のは……
 そう思う明の耳に、友人の情けない声が届いた。
「明~、振られちまったよぉ」

(つづく)

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あとがき

note初の連載作品です。2014年3月9日、Radiotalkの収録配信にて連続して朗読の形で発表したものですが、少々手を加えると思います。どうぞお楽しみに。


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