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【エッセイ】沈思黙考

心を守るためのセーフティゾーン。
絶対不可侵のゆりかご。
ある作家は、それを「繭」と表現した。

それはカタチのあるものでも良く、
カタチのないものでも良いらしい。
その作品の登場人物は推理小説家で、彼にとっての「繭」は「書くこと」だった。

私にはそんなものはないと思った。
絶対的に安心できる場所など、どこにもないと。

けれど、ふと、それは「思考」ではないかと思った。

私は、思考しないと生きていけない。
泳ぐのをやめると死ぬマグロのように。

しかし私は「思考」を「共に歩む者」と捉えてきた。
「思考」は私が生きるために必要なツールであり、
ときに夢中になって遊ぶ友だ。
まるでイマジナリーフレンド。

「思考」の先にある決断は気持ちが良い。
失敗することもあるけれど、「ここまで考えて決めたのだから」と納得することができる。

「思考」は楽しい。知識の整理でも良い。哲学的な探求でも良い。なんなら推しキャラを深読みして、妄想するのも良い。
こんなにも充実しているのに、時計を見れば10分と経っていないのだから、最高だ。

けれど、「思考」はときにわたしを呑みこむ。
ひとつの考えに囚われて動けなくなったり。
そこかしこで思考の奔流が吹き出して、収拾がつかなくなったり。

悪いことばかりではない。奔流をうまく捕まえられれば、「作品」としてカタチを成すこともある。

マルチタスクは苦手だ。
並行思考なんて夢のまた夢だ。
いろんなアイディアが同時に湧き上がってしまうと、全部を記録しきれなくて歯がゆい。

そもそも身体は一つしかない。
いくつ思いついたところで、実行に移せる「思考」はひとつずつ。
なんて歯がゆい。

「思考」が私を呑み込んでいる。
考えることしかできない。
体が動かない。
食べることも、眠ることもままならない。
疲れたのに、もう考えたくないのに、
溢れる「思考」を止めることはできない。

私のイマジナリーフレンドは、いつも優しいくせに、ときどきひどく勝手で、羨ましいくらいに自由だ。

人の手に負えない川の流れ。
かつて人々はそれを龍にたとえ、神として祀った。
祈ることしかできなかったのだ。
今の私みたいに。

それがないと生きていけないから、離れる選択肢はないから、
「どうか落ち着いて」と祈りながら待ったのだ。

やっぱりこの手を離すことはできない。
「思考」しないと生きていけない。

呑み込まれる。包み込まれる。息ができなくて苦しい。「思考」に溺れている。

でも、知ってる。もう少ししたら、君はいつもの君に戻る。
私を捕える水の檻ではなく、私の隣に立つ友に。

だから、離れない。
そもそも私は「思考」することが好きなのだ。

私の繭。「思考」のゆりかご。


有栖川有栖「ダリの繭」より着想

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