冷泉院の「あの話」について

最近、大河ドラマのおかげさんで花山院や冷泉院に今まで以上にいろいろなお話を見かけます。後鳥羽院や後醍醐院のような有名な天皇に比べて、それほど知られていない天皇でもあり、平安時代が好きな私にとっては大変嬉しく存じます。

さて花山院と冷泉院は歴史好きの方々にとっては名前をよく知っている人も多くいらっしゃるかと思います。というのも、彼らはいわゆる「狂気説話」と呼ばれるエピソードが多く伝わっている天皇なのです。当然この2人が何かしらの理由によって、当時の「普通」とは異なるところがあったのかもしれませんが、むしろこれらのエピソードには当時の政治の情勢によって、事実無根の、あるいは事実を極端に語ったきらいがあったのかもしれません。

そのような中でとりわけ有名なのが冷泉院が村上天皇の手紙の返事に男性器の絵を書いて送ったという説話です。この説話は「元亨四年具注暦裏書」と呼ばれる史料に掲載されており、『江記逸文集成』によって、本資料は大江匡房の日記『江記』寛治七年十月十二日条の逸文であることが知られます。具注暦の裏書にみえる話だそうで、元亨四年は西暦で1324年、寛治七年は1093年にあたります。

説話は単独で見ながら、他方でその他の説話との連綿や他の説話・説話集との比較などに注目して読むのも必要な面ではあります。そこで今回はあまり原文全体に注目されない「元亨四年具注暦裏書」に載る冷泉院の説話群を紹介いたします。以下に翻刻、訓読、現代語訳の順番で並べてあります。

『元亨四年具注暦裏書』(翻刻は『大日本史料』2-7 寛弘八年十月二十四日条による。なお〈〉内は小書き)

寛治七年十月十二日〈戌刻〉、大地震云々、昔冷泉院永延地震、早旦被仰云、池中嶋可立幄、為渡御也、仍立幄懸御簾敷筵道、巳尅渡御、暫而大地震、遅出之人皆被壓伏、人々問申、院被仰云、今夜九條大臣来申云、明日午刻可有地震、可御中嶋云々、仍所為也、聞者涕泣、大臣霊奉守護、不離御身云々、
故河内守重通語曰、童丱時在西宮、人々與朱雀院之間、泥塗之上、亘歩板三四枚、而自朱雀院方、有白髪老翁、放髻取裾乱渡橋、重通踏板一端令動搖、翁則平伏、俄自朱雀院方、蔵人二人喘走、引翁帰了、後聞、此翁冷泉天皇也、
一院御乳母之母小年時、奉見冷泉院、見衣服頗不鮮、被仰云少々無御匣殿歟、以調衣服之人、只今為御匣殿給也、
冷泉院令逢火事給時、入道殿以未著給之練色御衣獻之、院問給、人申其由、被仰云未聞天子著如此之色、〈御堂太恥申給云々、〉
故経信卿被語曰、冷泉院不尋[常]御坐、以脂燭欲焼宮、人々申云是左大臣之家、争得恣令焼給乎、院被仰云、富大王何不亦作乎、
南院焼亡時、乗車御装束三條南砌、公卿等候於庭院巻車後簾、向焼亡方、令歌庭火給、公卿竊曰、過分之庭火也云々、
雖狂給、有復尋常時、太美麗之人也云々、
為太子狂亂之初、終日不顧足傷蹴鞠、欲留於梁上、人々初恠、又参上淸涼殿、昇炬火屋上而坐御、天曆御消息返事、書玉茎形給、是等狂乱之始也、大嘗會御禊之日、復尋常渡給、〈美麗無極、〉懐子女御参給、狂亂之後、生三条院并為尊・敦道等親王、

訓読
寛治七年十月十二日〈戌の刻〉。
大地震と云々。昔、冷泉院の永延の地震。早旦仰せられて云はく「池の中嶋、幄を立つべし。渡御の為なり。」といふ。仍て幄を立て御簾を懸け筵の道を敷く。巳の尅渡御す。暫らくして大地震。遅く出づる人、皆圧伏せらる。人々問ひ申す。院仰せられて云はく「今夜、九條大臣来り申して云はく『明日の午の刻、地震有るべし。中島に御しますべし』と云々。仍て為す所なり」といふ。聞く者涕泣す。大臣の霊守護し奉り、御身を離れずと云々。
故河内守重通語りて曰はく「童丱の時、西宮に在り。人々と朱雀院との間、泥塗の上、歩みの板三・四枚を亘る。而るに朱雀院の方より白髪の老翁有り。髻を放ち裾を取り乱し橋を渡る。重通、板の一端を踏み、動搖せしむ。翁則ち平伏す。俄かに朱雀院の方より、蔵人二人喘ぎ走り、翁を引きて帰り了んぬ。後に聞く、此の翁、冷泉天皇なり。」といふ。
一院の御乳母の母、小年(若い年の意味か)の時、冷泉院を見奉る。衣服を見るに頗る鮮かならず。仰せられて云はく「少々御匣殿無きか。衣服を調ふる人を以て、只今、御匣殿と為し給ふなり。」といふ。
冷泉院、火事に逢はしめ給ふ時、入道殿以未だ著し給はざる練色の御衣を以て之を献ず。院、問ひ給ふ。人、其の由を申す。仰せられて云はく未だ天子の此くのごときの色を著するを聞かず。〈御堂太はだ恥ぢ申し給ふと云々。〉
故経信卿、語られて曰はく「冷泉院、尋常に御坐しまさず。脂燭を以て宮を焼かんと欲す。人々、申して云はく『是、左大臣の家。争でか恣いままに焼かしめ給ふを得んや。』といふ。院、仰せられて云はく『富大王何ぞ亦た作らざらんや。』といふ。」といふ。
南院の焼亡の時、車に乗り東三條の南の砌に御します。公卿等、庭に候ず。院、車の後の簾を巻き、焼亡の方を向き、庭火を歌はしめ給ふ。公卿、竊かに曰はく「過分の庭火なり」といふと云々。
狂ひ給ふと雖へども、尋常に復する時有り。太はだ美麗の人なりと云々。
太子として狂乱する初め、終日足の傷を顧みず蹴鞠す。梁上に留まらんと欲す。人々初めて怪む。又清涼殿に参上し、炬火屋の上に昇る。而るに坐し御します。天暦の御消息の返事、玉茎の形を書き給ふ。是等、狂乱の始めなり。大嘗会の御禊の日、尋常に復し渡り給ふ。〈美麗極まり無し。〉懐子の女御参り給ふ。狂乱の後、三条院并びに為尊・敦道等の親王を生む。


現代語訳
寛治七年十月十二日〈戌の刻〉。
大地震があったということである。昔、冷泉院の頃の永延の地震。朝早く冷泉院が「池中の島に幄を立てなさい。渡御する為である。」と仰った。そこで幄を立て御簾を懸け筵の道を敷いた。巳の刻にそこで渡御した。しばらくして大地震が起きた。逃げ遅れた人は皆押し潰された。人々がこれを尋ねた。冷泉院は「今夜、藤原師輔が来て『明日の午の刻、地震が起こるだろう。池中の島にいらっしゃりなさい』と申し上げた。そこでしたことである」と仰った。聞く者は涙を流した。師輔の霊は冷泉院を守護し申し上げ、院の御身を離れなかったというこである。
故林重通が語ったことに「幼い時、西宮にいた。人々と朱雀院の間、ぬかるみの上、歩みの板三・四枚をあるていた。そこで朱雀院の方から白髪の老人が来た。髻を放ち裾を取り乱し橋を渡っていた。重通は板の一端を踏んで揺らしたところ、翁は倒れた。突然、朱雀院の方から、蔵人二人がゼエゼエと走ってきて、翁を連れて帰っていった。後に聞くところによると、この翁が冷泉天皇である。」ということである。
白河院の御乳母の母は若い時、冷泉院を見申し上げた。衣服を見るにそれほど美しくなかった。冷泉院は「少々、御匣殿が居ないのだろうか。衣服を準備する人をもって、只今、御匣殿となさるのだ。」と仰った。
冷泉院が火事に遭われた時、藤原道長はいまだ御着用なさらなかった練色の御衣を献上した。冷泉院はお問いになった。人はそのことを申し上げると、冷泉院は、天子がこのような色を着用したというのは聞いたことないと仰った。〈道長は大層恥ずかしがりなさったということである。〉
故源経信がお語りになったことによると、「冷泉院は尋常にはいらっしゃらなかった。脂燭をによって宮を焼こうとしたことがある。人々は『ここは道長の家です。どうして好き勝手にお焼きになさることができましょうか。』と申し上げた。冷泉院は『富大王はきっと再建するだろうよ』と仰った」ということである。
南院が火事の時、冷泉院は車に乗り東三條の南の砌にいらっしゃった。公卿たちは、その庭に候じた。冷泉院は車の後の簾を巻き、火事の方を向き、庭火をお歌いなさった。公卿たちはひそかに「過分の庭火(神楽歌の庭燎と火事の様子とを掛けて茶化している)である」といったということである。
発狂なさっていたといっても、普通に戻る時があった。大層美麗な人であったということである。
皇太子となって狂乱したはじめ、一日中、足の傷をも顧みず蹴鞠をしていた。また梁上に留まろうとした。人々ははじめて怪んだ。また冷泉院院は清涼殿に参上し、炬火屋の上に昇った。そこで院は座っていらっしゃった。村上天皇の御手紙の返事に男性器の形をお書きになった。これらは狂乱の始めである。大嘗会の御禊の日には通常の様子に復し、お渡りになった。〈美しいことこの上なかった。〉
懐子の女御が参上なさった。狂乱の後、三条院并びに為尊・敦道の親王を産んだ。

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