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写真を撮ることのやめられなさ。蘇る“そのとき”の情景

写真を撮る醍醐味ってこんなところにあるんだなと思わずにはいられなかった。その画角に収められた光景は、撮った者にとってはだたの一枚の写真ではない。いろんな隙間や余白があり、いろんな想いが保存されている。

昨日に引き続き風邪をこじらせて突っ伏していた今日。
いや、昨日以上に何もしていない。一日の大半を寝て過ごしていた。

回復傾向にはあるものの、頭がぼーっとして何かに集中して取り組むのが億劫。
本を読んでも頭が疲れてくる。パソコン画面を文字を追いながら眺めるのも疲れる。

そういえば友人から何かのプロジェクトで使う写真と簡単な文章を求められていた。
何を送ってくれてもいいということで、それならと過去に撮った写真を整理も兼ねて眺めてみることにした。愛用のFujiのミラーレス一眼からSDカードを抜き取り、パソコンで一つ一つチェックする。

直近のものでも何を撮ったかは意外と忘れているものだ。あ、こういう景色を収めていたんだなと新鮮さと懐かしさの矛盾した気持ちが湧いてくる。仕事で撮ったもの、私的に撮ったもの。目的ありきで撮ったもの、目的なんてなしに撮ったもの。

それらの写真は似ているようでいて、似ていない。撮ったときの態度はそのまま写真の画角に表れる。どこに焦点を当てているのか、何を削ぎ落としているのか、どんな色味と明るさにしているのか。そういうものが仕事の範疇で撮ったもののほうが強く出る。意図的さというか、計算されているというか。

私的に撮ったもののほうが、ある種の気軽さや肩の力が抜けている感がある。誰に見せようとか、SNSに載せようとか(まあ撮ったときに思ったりもするが)、打算的に考えて撮ることがあまりない。その目的のなさが仕事として撮っているものよりある種のパッションがあったり、作品として良い写真が撮れていたりする。まあ、仕事で使う写真の良さと作品としての写真の良さは別物であるけれど。その両面をプロの写真家は両立できるんだからすげーななんて毎回驚嘆するのだが。

あらゆる状況で撮られた写真たちを眺めていると、風邪のしんどさを忘れていることに気づく。さっきまで感情もなく無表情・無感動な省エネ状態だったのに、知らず知らずのうちに気分が良くなっているのだった。

それぞれの写真を見ていると「あ、このとき撮るの苦労したんだよな」「思わず綺麗でシャッター切ったんだよな」「撮ることに集中するのがもったいないほどうっとり見ていたい光景だったな」なんていろんなことが思い起こされる。

そのときの感動、緊張、不安、気分の上昇、自分の息遣い、心臓の拍動、肌のゾワゾワした感覚。そのすべてがじわりじわりと蘇ってくる。その場所に自分がいた証、その時間と空間に自分が一人の登場人物として埋め込まれていたこと。過去の出来事だけど、そのときの「今」がありありと蠢くように蘇ってくる。それもリアルな肌感を持ってして。

写真の一枚一枚を見るごとに、僕はその写真を撮ったときの「僕」を擬態しているかのような気分になる。それととも擬態した「僕」の記憶も追体験する。もちろん、すべて心地よいものではない。けれど、「ああ、僕は確かにそこにいたんだよな」となんだか感傷的な気分にもなれる。人、物、光景、場所、時間。どれもが一期一会で、そのときにしか出会えなかったものたちばかりだ。

結局、その中からなんでもない一枚を友人には送った。
なんでもないけれど、僕にとっては思い入れのある一枚。その光景が目に入ったときにいろんな言葉が浮かんできた。

そうするうちにしんどい体は幾分軽くなっていた。
過去に撮った写真たちを眺めるのもたまにはいいらしい。
せわしい時間からはみ出して、逃避してから帰ってくるのも悪くない。

さて、明日からは元気に過ごしたいな。

(本投稿の写真は宮崎県串間市の都井岬のものです)


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