『福田村事件』と既視感のある居心地の悪さ

心地悪さやモヤモヤがまだ残っている。
本当は観賞した直後、その日床につく前に吐き出しておいたほうがよかったのだろうが、内側で渦巻いているものがうまく言葉に乗せられない。

2日が経った今日も頭の片隅から離れることがない。
いっそのこと、今のうちに書き留めることで吐き出そうと思う。

手帳なんかに殴り書きをして誰にも見られることなく済ますのもいいんだけど、やっぱ誰かに話を聞いてもらいたいんだな。だからここに書くんだな。
映画を劇場で観たあとの余韻残る駐車場や喫茶店でダラダラと話をする感じで耳を傾けてくれれば。

(以下、少しだけ映画の内容に触れています)


先日、『福田村事件』という映画を観た。
1923年9月6日、関東大震災直後の千葉県・福田村(現:野田市)で実際に起きた事件を基にした映画だ。震災後に広がった流言飛語、いわばデマによって、旅の行商9人が村人たちによって虐殺された。そこに至るまでの過程をフィクショナルな物語を交えて描いている。

井浦新や永山瑛太のほか豪華なキャスト陣が出演している。

この映画を観た理由として、内容に興味があったというのもそうだが、同じタイミングで上映され、かつ同じ主要キャスト(井浦新・永山瑛太)が出ている『アンダーカレント』への対抗意識もあった。

友人知人の多くがそちらのほうを観に劇場へ足を運んでいたため、なんとなく対抗したくなったのだ(今泉作品好きなのでぐぬぬ…と思いながらの判断である。いや、今も時間つくって観に行きたいと思ってるよ)。

そんな理由から観たはいいものの、結果として劇場のシートから腰を上げるのが億劫なほどに体力を使いきってしまった。

エグかった、衝撃を受けた、参った、滅入った、落ち込んだ。
こんなりゲンナリとするのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以来かもしれない。少なくとも、過去3年のうちに観たシリアスな新作映画のなかではダントツで「くらった」作品だった。

実際にあった虐殺事件、「ふつう」の人々が不安に駆られてデマを信じ、よそものを殺すという内容もそうだが、フィクションとしての物語の描き方も相当にグロテスクだった。スプラッターのような直接的に痛々しい場面を描くのではなく、会話や人間模様、時代背景などを複雑に絡ませながら「これってこうじゃん」「うわ…こうなるのがわかっちゃう」と観る側がイメージしてしまうようなグロテスクさ。作品の時間軸より未来に生きる観賞者だからこそ予期できてしまうこと。

すごく嫌な後味が残った。
それはこの作品そのものに由来するものではなく、この作品によってさまざまな記憶が蘇ったからだ。作品の至るところ、とくに関東大震災後から虐殺へ至る光景のなかに、今まで生きてきて見た・感じたものがあった。そのそれぞれに既視感があった。

大きな出来事でいえば2011年3月に起きた東日本大震災、2020年からはじまったコロナ禍。それ以外にも自分の目の前に広がる日常の小さな出来事のなかでも、『福田村事件』で描かれていたような嫌な感じ、既視感のあることが起こっていた。映画のシーンが日常のことと重なった。

映画のなかではさまざまな問いかけが飛び交っていた。

日本人と朝鮮人、“同じ”日本人のなかでも士農工商、軍人、商人、農民、穢多・非人と分けられるもの。“同じ”村人でも異なるもの。境界はどうやってできるのか。村八分の人間たち。際にいる人たち。

どこで同胞意識が生まれるのか。仲間と敵(脅威)との区別。殺す・殺さないの区別は。

朝鮮人、社会主義者、障がい者、そのほか平時ではマイノリティや弱者としてカテゴライズされる人々。有事では真っ先に疑いの目を向けられ、脅威になる。

ちょっとした違いが有事では一気にクローズアップされる。拡大解釈される。攻撃の的になる。普段の秘め事、隠していること、周りが薄々勘付いていること、抱えている印象。

何かに対して怒りたい欲望や衝動、殺したい欲望や衝動。それらに都合の良い理由・動機を与えてしまう出来事。それらを抱える人々にとって好機となってしまうこと。

保身に走ること。仕方がなかった、村を守るためだ、日本人を守るためだ、そのつもりでやったんだ、だから罪はないのだと開き直ること。

言葉が異なること、文化が異なること、コミュニケーションの齟齬、話が通じないこと。

その時代の常識、その村での常識とされていること。

小さな違いの積み重ねで、人は争うことができるし、そこにパニックな状況が加われば人を殺してしまうこともできる。

暴徒化した村人に行商たちが囲まれるシーン。
少なからず「この人たちは“日本人”だから殺したらいかん!」と彼らを庇う人たちがいるなかで、行商の親分である新助(永山瑛太)が「“朝鮮人”なら殺してええんか!」と叫ぶ瞬間がある。

澤田(井浦新)が過去に朝鮮で目にした出来事を語るシーン。
「その土地で暮らすなら、その土地の言葉を覚えることが大切だと思った」
そんなセリフを放っていたと思う。

監督の意図があるにせよ、ないにせよ、その二つのシーンが象徴的に残っている。

<宮崎県では宮崎キネマ館で10月6日より上映中>


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