マンガという救い/「2.5次元の誘惑」157話「並び立つ」/「おさななじみのひと」Mという性的少数者を描いたマンガ/バンクシーという作家の面白さ

3月2日(土)晴れ

今朝の最低気温、予想はマイナス6度だったのだが実際にはマイナス2.5度くらい。そんなに寒い感じはしなかった。ちょっと疲れが出たのか昨日は11時ごろにソファでうたた寝してしまい、ビデオの赤ランプでフリーレンの録画が始まったなと思いながら寝落ちしてしまって、目が覚めたら2時だった。うたた寝が最近ガチ寝になってきていて大丈夫かなと思ったり。まあ昔の武士は寝る時も片膝立てて座ったまま寝てたりしたみたいなマンガも読んだが、布団でちゃんと寝た方が休まるだろうなとは思う。寝直して起きたら5時半ごろで、なんとなく自分の中がネガティブになっていて困ったのだが、少しお茶を飲んだりした後とりあえず出かけることにして職場でちょっと用事を済ませたあと車で隣町まで給油に走った。

途中聞いていたFMのビバ合唱もカーステに入っていたドビュッシーのCDもなんとなく寂しい感じの曲で行く気にならなくて、ちょっとメンタル落ちてるなという感じだった。丘の上のデイリーで塩バターパンとあんドーナツを買って帰る。卵を買って帰るか迷ったが、一個はあるはずと思ったので昼食の買い物の時に買うことにし、帰ってみたらゼロだった。まあ時々こんなことがある。

なんとなくメンタルが落ちてて困ったなと思いながらジャンプ+を開いて読み始めたら、「ペンションライフバンパイヤ」と「対世界用魔法少女つばめ」が割と面白くて(そう言えば4日にコミックス第1巻が出る、楽しみ)少しマシになったけど、やはりなんといっても今朝一番面白かったのは「2.5次元の誘惑(リリサ)」第157話「並び立つ」だった。

このマンガは仕掛けが多いので、考察勢もまた多いのだが、スポ根コスプレマンガだから「進撃の巨人」の考察勢のような深読みはないのだけど、画面に現れた微かな違和感みたいなものを手がかりにこんな展開を作者さんは考えているのではないかという考察の仕方が多い。もちろんストーリー的なものもあるけれども、前回は「リリエルは誰か」「ラスタロッテの妹は」という問いかけから今回の展開を予想した人が多く、私自身もその辺りは的中していたのだが、実際の展開は四天王も絡んだもっと熱いもので、予想を超える神回だったなと思う。

今までは漫研(実質コスプレ部)や他のコスプレイヤーの人たちとの交流がストーリーの感動のポイントだったのだけど、今回の展開は「師弟愛」がテーマで、「にごリリ」の世界がさらに広がった感じがする。コスプレという一見派手だけど「大人」には認められにくいこの世界をこんなに熱く語るというのはすごいなと以前から思っていたが、「大人」にも届く広がりが認められていく可能性が出てくるといいなというようにも思った。

マンガの話をもう一つすると、これもやはりジャンプ+だが昨日更新された読切の「おさななじみのひと」がかなり面白かった。テーマとしては幼馴染の恋愛という定番に「SM」という問題含みの題材を組み合わせた作品なのだが、問題的な方向に引っ張るのではなくて「純愛」の方向に引っ張って成功しているなと思う。

「SM」をテーマにした作品としては最近のものでは「可愛想にね、元気くん」がある。

これは最終的には「自分の欲望との付き合い方」という問題と正面に取り組むことによって居場所を失ってやり直すことになる、という展開になるわけで、なんというかその性癖と関係のない読者にはかなりハードな読みものではあったが、当時の倫理観のトレンドとしてはその方向にいかざるを得ないかなと思うところもあった。

こうした問題、というか人間性の深いところにある「ある種の闇」に対する視点というのはいく通りもあり得るので、この作品は最終的にこの視点をとったのだなと思うのだけど、性的少数者の問題がよりクローズアップされている現在においてはどういう描き方になったかなと思わせるところもある。

私自身はこの問題を社会問題としてとりあげている現在の方向性にはあまり共感するところがないというか反対の立場もある(性的少数者の差別そのものは解消されるべきだとは思うが運動の方向性に共感できないという意味)のだが、性癖の揺らぎみたいなものは誰にもあることではないかと思うし、ifの世界においてではあるが、当事者感覚も理解できるところはある、まあその程度ならかなり多くの人がそうだと思うが。

自分が書いたnoteでもインプレ数で今までで一番読まれているのが3人の女装中学生を描いた「ぼくらのへんたい」についての感想だったりして、自分でもそれなりにいろいろ考えるところはあるのだが、「普通」「普通でない」を差別とかそういう文脈に結びつけて行くのではなく人の在り方の濃淡、あるいはニュアンスの差のようなよりポジティブで自然な感じで普通のこととして「変わってるね」「そうなんだ」くらいの感じで受け止められる構造とかそれを肯定する理論のようなものができると良いなと思ってはいる。

一見派手だけど認められにくい、ということでいえば昨日「アナザーストーリー」でみたバンクシーの話がまさにそうだったなと思う。もともとグラフィティアート(壁の落書き)から出てきたバンクシーがロンドンでゲリラ的に様々な活動をして注目されるようになり、ついには美術品市場で高額で取引されるようになったことに異議を唱えたバンクシーが、ついにはオークション会場で作品をシュレッダーにかけるという前代未聞の事件を引き起こして混乱を巻き起こすが、数年経ったらそのシュレッダーにかけられた作品そのものが超高額で取引されるようになった、という資本と作家の攻防みたいな話が面白かった。

まあ絵画界のパンクみたいなものなんだなという理解をしたが、パレスチナやウクライナで人々を勇気づける活動をしているというのはいいなと思った。もちろん敵対陣営からは資本主義の体制を批判する作家が西側の価値観の体制主義に染まっていると批判されるだろうとは思うのだが、もちろんそこにある種の限界がないとは言い切れないけれどもアートと社会の関わり合いの一つの形としては面白いとは思う。また違う文脈のものも出てきて欲しいとは思うけれども。

バクシーという作家にあまり興味を持っていなかったしむしろ反発を感じているところがあったのだが、確かにそれはそれで商売をしようとするアート界に対する反感と、それに乗っているように見えた作家に対する感覚なのだなということがわかり、彼の作品とやろうとしていることをもう少し雑音を入れずにきてみたい、みてみたいと思ったのだった。

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