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国史跡 重要文化財 頭塔石仏

 奈良町の東、まちなかにあり「謎のピラミッド」と話題になった階段状の土の塔は一辺32m高さ10mのピラミッド形をしており、立体曼荼羅のような多数の浮き彫り石仏が祀られています。日本のピラミッドと名付けられている頭塔の存在は知っていたのですが、はじめて訪れた際にはこの景観に圧倒されました。そして石仏にお参りしつつ周囲を歩き続けました。
 多数の浮き彫り石仏が階段状の各所に祀られていた。石仏は28基が確認されていて、奈良時代後期の石仏として22基は國の重要文化財に指定されています。
 青空に歴史ある古びた石仏の造形の確かさ、優雅さそしてきめ細かな表現力の高さに技術力の高さに見惚れ明治政府の政令の廃仏毀釈で仏像や地蔵尊が廃棄され池や川に廃棄された信じられない歴史があるにかかかわらずよくぞこころある人により保存されたとしても奇跡的なことだと疑問に思いつつしばらくたたずんでいました。

1000年の歴史が感じられる石仏
浮彫如来及両脇侍二侍者像
浮彫如来及両脇侍二侍者像

 発掘調査資料や伝説や古文書そして今昔物語などを記録していたあれこれ多くのノートの資料がみつかり頭塔の歴史をしるためにすべて解説して頭塔について可能な限り史実に基づき解説してみました。 
 神護景雲元(767)年に東大寺の僧・実忠が土塔を築いたとの記録があり、その役割は、大寺院の五重塔などと同じような仏塔であったと考えられています。実忠は「お水取り」の名で知られる修二会(しゅにえ)の創始者であり、東大寺別当の良弁の命により造った塔であるとされています。天平感宝(746)年に権勢を振るった僧・玄昉(げんぼう)の首塚との伝説もあり、「頭塔」の由来とされていましたが、実際には土塔(どとう)がなまって頭塔|(ずとう)と呼ばれるようになったようです。 
 東大寺の記録にはこの塔の造立の事情については、東大寺要録の「新薬師寺」の項に「実忠和尚野岩塔」とありまた同じ書の「実忠29ケ条事」というものの中に「1.奉造立塔1 基、在新薬師寺西野以去景雲元年所造進也」という記事があり、これは良弁の命により国家の奉為(おんため)に造ったものであるとというか、この塔ががこれであるとされている。

頭塔掲示
三段の頭塔

 頭塔の伝説頭塔という名の起源を筑紫に乱を起こした藤原広嗣の怨霊が玄昉(げんぼう)を捉えて天に飛びその首の落ちたところに塚を築いたのがこれで、そのために頭塔と名付けられたとある。 玄昉は聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、天平12年(740年)には藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。この乱は失敗に終わった。 翌天平13年(741年)7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している。

石仏風景


今昔物語
この頭塔には昭和に入って本格的な調査研究が行われ、「仏舎利を納める仏塔」であることが判明するまでは、玄昉の墓であると信じられてきた。そう信じられてきた痕跡が以下の通り古文書にも残っている。
(1)「今昔物語」には、以下のようにこの頭塔について以下の通り記述されている。
「藤原広嗣が悪霊となって政敵である玄昉に祟り、玄昉の体を空中に舞い上げバラバラにして落下させた。弟子たちは遺体を拾い集めて埋葬するが、その墓は奈良にあるという」
(2)また「七大寺巡礼私記」には、この頭塔について、以下の通り記述されている。興福寺の巽の方五町あまりの荒野中に十三重塔あり、僧正(玄昉)の頭を以てこの墓に埋める。故に頭塔と号する」

頭塔が築造された目的
 この塔が築造される3年前の764年に恵美押勝の乱が起こり、一方の当事者である孝謙太上天皇は鎮護国家と乱による戦死者の鎮魂を祈念して西大寺金銅七尺四天王像造立や百万小塔を作らせたことはよく知られるところである。
この時期に塔の築造が重なっており、また古文書記録には、この塔の築造目的について「鎮護国家の為」とあることなどから、孝謙太上天皇(称徳天皇)の一連の発願の一つであったのではないかと考えられている。

 奈良時代の僧。俗姓は阿刀氏。716年(霊亀2)学問僧に任じられ,翌年入唐し,法相宗を学び,玄宗皇帝から紫の袈裟(けさ)着用を許された。735年(天平7)諸仏像と経論5000余巻をたずさえ帰国,経論を光明皇后の写経所に提供し,皇后発願の一切経(五月一日経)など書写の原本とされた。封戸(ふこ)や水田,童子を賜り,皇后は彼のため海竜王寺を左京一条二坊に建立した。
 737年疱瘡(ほうそう)飢饉の猛威に除災招福が切望され,彼は僧正に任ぜられ,宮中の内道場で仏事を主宰して勢威を高め,藤原宮子(聖武天皇の母)の鬱病(うつびよう)を快癒させ,賞された。
 帰国後聖武天皇に信頼され政界で重き役割を果たし仏教界で活動したが政界の権力争いにより藤原広嗣の乱後、藤原仲麻呂ににより政界を追われ筑紫観音寺に左遷されその地で逝去した人物である。

頭塔
  もともと樹木などがなく土丘の表面を石で築いた塔跡であろう。という。塔の四面に四方四仏の浄土を配したものである。
このほかバラエティに富んだ構図も加わり涅槃図があり、花蓋や楼閣を配したものが残っている。現在は観光ホテル取り壊され全景が見られるようだがまだ訪れることができない。
  頭塔の見学は予約制で、頭塔の近くの頭塔保存顕彰会での予約が必要である。
詳細については奈良県教育委員会文化財保存課のホームページを参考にしてください。  URL http://www.pref.nara.jp/6709.htm





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