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【合唱曲の歌詞を読む】「Tomorrow」(杉本竜一)



0.はじめに

子どもの頃学校で歌った合唱曲。少年時代の良き思い出。今回はそんな合唱曲の歌詞を読み解いてみようと思います。
扱う曲は杉本竜一の「Tomorrow」です。主に小中学生に歌われているようです。卒業ソングに使われることもありますね。
ぼくは小学生のときに卒業生を送る歌としてこの曲を歌いました。メロディがきれいでやさしく、とても印象に残る曲でしたね。
それ以来曲名を忘れていましたが、冒頭のフレーズをネットで入力することで、曲名にアクセスできました。ネットは便利ですね。


1.合唱曲の良さとは

この記事も意欲があればシリーズ化しようかと考えています。そこで第1回ということで、そもそも合唱曲の良さとは何か、思いつくままに書いていこうと思います。

1つは情景が美しく歌詞に表現されていることでしょう。たとえば一般的なJ-POPのラブソングと比較してみるとわかりやすいかもしれません。ラブソングでの主題は「個人から個人への(性的な)想い」です。要するに個人の歌、ということになります。情景が描かれることもありますが、それはあくまで自分の想いを伝える「背景」としての場にすぎません。ぼく自身ラブソングをあまり聴かないというのもあると思いますが、あまり情景のフレーズが思い浮かんでこないんですよね。

これに対し、有名な合唱曲では情景が詩的に表現されやすいです。というのも、合唱曲は個人の歌というより、「みんなの」歌という側面が強いからです。だから、個人の感情をクローズアップして歌い上げることは少ないように見えます。それよりは全体を俯瞰した視点から情景を描き、そこから溢れた感情を歌うようなイメージでしょうか。

よって、ラブソングと合唱曲の歌詞には異なる色彩が表れます。前者は「愛してる」「好きだ」「君だけを」といった直接的表現が目立ちます。それは個人の歌ゆえに、個人の感情がクローズアップされ、拡大されているからです。
後者の視点はもっと高く、広いです。
「人はみんな誰でも」
「秋の夕日に 照る 山紅葉」
「春のうららの 隅田川」
「君だけを」ではなく「みんな」という客観視点が描かれています。また、山紅葉や隅田川はデートスポットのような恋のフィールド・アイテムとしてではなく、単にそこにある美しい情景として描かれています。背景ではなく前景なんですね。ラブソングの視点は、僕→君(背景は添え物)。合唱曲の視点はぼく→ぼくら→情景(ぼく、ぼくらと同格で、しかも前景として描かれる)というわけです。

要するに歌詞が露骨すぎなくて良い、ということであります。歌っていても聴いていても、不快になることもなければ恥ずかしくなることもない。なぜなら、個人の歌ではなく、みんなの歌だから。そういう歌を、性的快楽に魂を売り渡していない子ども時代に歌うのだから、その思い出は美しいものとして保存され、いつまでも余韻を残す。
だからこそ、ぼくが今でも口ずさむのは合唱曲です。

2つ目は「みんなで歌う」ことから来る一体感ともいうべき感覚、そして生きた音楽であることですね。
別にラブソングを大合唱したって構わないわけですが、なんか違和感があると思います。結局は個人の歌なので、みんなで歌っても一体感は生まれない。個人個人で別の対象とそれへの感情を思い浮かべるだけ。むしろ孤独感が増すかもしれません。それと、映画やドラマの主題歌である場合は「体験」というより「消費」のようなものになる。生きた音楽というよりは作られた音楽、つまり生の音楽とは感じにくいのではないか。そう思います、
美しい情景と一体感、生命力に溢れていること。これは合唱曲の魅力と言っても良いでしょう。


2.歌詞

(1番)

それでは、実際の歌詞を見ていきましょう。まずは1番の最初のフレーズから。

時の流れ いつでも かけぬけて行くから

やさしさだけ 忘れずに 抱きしめていよう

「Tomorrow」作詞/作曲 杉本竜一

叙情的な伴奏とともに始まる情感に満ちた歌詞。作者のセンスをひしひしと感じます。
歌詞の通り、時間はあっという間に過ぎていきますよね。楽しい時間も、終わってしまえばあっという間。学生時代もあっという間。さらに最近では何でも「効率化」が叫ばれ、どんどん忙しなく駆り立てられている気がします。

そんなぼくらに警句を発するかのように、滑らかな調子で次のフレーズ

「やさしさだけ 忘れずに 抱きしめていよう」

駆け抜けた「時」はぼくらをどう変えてしまったのか?そのことを「やさしさだけ」という詞で暗示的に表現しています。
時の流れによって失うもの、それは

「純粋な気持ち」
「屈託のない笑顔」
「快活な時間と空間」
「種々雑多で混沌、しかしなぜか調和する【仲間】」
「飽くなき好奇心」

数え上げればキリがありません。
子どもの頃、大して意識もせず持っていたこれらのものを、ぼくらは大人になる過程でいとも容易く捨て去ります。そして、捨てた後で気づきます。自分たちがどれほどの財宝に恵まれていたか、それを容易く捨てたにもかかわらず、代わりに得たものがいかにちっぽけでくだらないものであったかを。しかし気づいた時にはもう手遅れで、後の祭り、というよくある例ですね。

けれど。
けれども。
それでもなお、ぼくらが持っていられるものがある。それは何か。
そう。
それが「やさしさ」なのだと。
多くのものを失う。それはある意味避けがたいことなのかもしれません。しかしそれでも「やさしさ」だけは持っていられるし、失ってはならない。もし失えば、ぼくらはただの歯車、自動人形です。どれだけ金や地位や名誉や物質に恵まれていようとも、「やさしさ」を失った先にあるのは空虚な自我と時空間だけ・・・。
しかし、「やさしさ」さえあれば、それを糧にぼくらは何度でも甦ることができる。不死鳥のように。なぜなら、「やさしさ」こそ少年時代の絆を支えるものだったのだから。

問いかけているんですね。
「今、あなたの心にやさしさはありますか?」
「今の社会に、やさしさはあるのでしょうか?」と。

「ホームレスはどうでもいい」という差別発言が行われたのは記憶に新しいです。これこそまさに「やさしさ」を失った典型例といえます。
だってそうでしょう?
子どものころ、友だちがケガしたらどうしましたか?
多分、保健室に連れて行ったんじゃないでしょうか。それが自分にとって「損か、得か」ではなく、本能でとっさに判断したはずです。
もはや、「自分が損するなら、保健室には連れて行かない」ということでしょうか。
そんな社会に、果たして未来はあるのでしょうか?

まあとにかく、年を取っても「やさしさ」を守り抜くことの重要性が、歌詞からしみじみと伝わってきます。

では次のフレーズ。

大空を 自由に鳥たちが
光の中 飛び交うように
夜空から こぼれた 星屑が 
波の上を滑るだろう

「Tomorrow」作詞/作曲 杉本竜一

ダイナミックな視点変更が鮮やかです。前節は非常に内向的、過去的です。過ぎ去った時間を、懐かしく思い出すイメージ。
しかし本節の視点は「大空」、つまり外に向いています。開放的で、希望があって、未来を見ている感じ。「自由」というフレーズがまさにそうですね。
「鳥」は翼を持つ者。広い空へ羽ばたく「自由」な存在。類似表現で「自由」が強調されます。
そんな鳥たちが羽ばたくのは「光」の中。晴天の輝く光なのか、曇天の雲間から差す一筋の光なのかはわかりませんが、とにかく雨ではない。希望があります。

そしてただ一羽飛ぶのではなく、「飛び交う」。そこにはいろんな鳥がいる。ひとりぼっちではない、「仲間」がいる状態。とても賑やかなイメージが湧きますね。
ナルシズムに自閉せず、大空へ羽ばたこう。
実に開放的です。

そして時は流れ、夜。空からこぼれた星が波の上をすべる。素敵な叙景詩ですね。
「星」は果てしなく遠い存在、「夢」や「理想」のメタファーとしても読めます。「波」は何でしょうか。「人生の荒波」「景気の波」というように、森羅万象の立っては消える現象のことでしょうか。
「夢」が「波の上」を「滑る」。
叶えられた夢は、人生という名の「波」に乗って、目的地へと導く。
叶えられなかった夢も、同じ「波」の上に投げ出され、苦悩や歓喜を繰り返しながら、同じく目的地を目指して漂流する。
違うのは速度と過程だけで、行き着く先は同じ。人生という名の大河。だから失敗しても大丈夫だ、とも読めます。
「落ちる」ではなく、「滑る」。落ちたらそこで終わりじゃない。目的地まで滑っていく。なぜなら、「時は流れる」から。
「滑る」から「統べる」を連想するのもおもしろいですね。命あるものすべては本来ひとつなのだ、という解釈をしてもいい。
あるいは単に美しい光景をストレートに表現しているようにも見えます。
読みがいのあるフレーズです。

それではサビを見てみましょう(1番2番共通)。

Tomorrow Tomorrow また明日が

素晴らしい夢と素敵なメロデイ

運んできてくれるだろう

Tomorrow Tomorrow 明日を信じて

翼広げて 飛んでみよう

「Tomorrow」作詞/作曲 杉本竜一

過去、現在と来て、次は将来。まさに来たらんとする「明日」がまたやってくるのだ、と言います。辛くとも、苦しくとも、「明日は来るのだ」と。自然な流れから来るストレートな歌詞です。そしてその明日が「夢」と「メロディ」を「運んで」くる。「運んで」というのがまたいい。「掴みとる」ではなく「運んでくる」。そこにあるのは排他的な競争によって「奪い取る」、自己責任論的世界観ではない。「運んでくる」のは「明日」、つまり人間の手が届かない大いなる存在、「運命」なのだと。

だから手を尽くして待とう。
待つ勇気を持とう。
希望は向こうからやってくるのだから。
ここにあるのは、包容的な、「やさしい」世界観です。
明日を信じて翼を広げ、飛んでみよう。
前節の「鳥」と同じく羽ばたこう、恐れずに。というわけです。失敗を怖がらなくていい。なぜなら、運命が「夢」と「メロディ(豊かな心)」を運んできてくれるのだから。


(2番)

風の中で 聞こえる かすかな 叫びが

誰かから あなたへの ほんとの気持ち

「Tomorrow」作詞/作曲 杉本竜一

この「風」は穏やかな「そよ風」なのか、「嵐のような風」なのか。文脈からすると前者のほうが妥当に見えます。
しかし、大事なのは次の詞。
「聞こえる かすかな 叫びが」
ではその叫びとは?
「誰かから あなたへの ほんとの 気持ち」
想像力を掻き立てる詞といえます。
誰かとは誰なのか?
ほんとの気持ちとは何なのか?

これに関しては、次のフレーズで明かされます。しかし、自分が思いつくものを好きに代入してもよいのではないかと思います。
「誰か」は学生時代の仲間でも、故郷の親でも、過去の自分でも、自然でも。
「ほんとの気持ち」は友愛でも、尊敬でも、期待でも、警告でも文意の通る歌詞にできます。

歌を辛いときの処方箋として考える場合、この節は重要になりそうです。
とくに、受験や就職を控えている人たち。
いうまでもなく、それらの関門は人を何らかの基準で振り分け、選別する場です。
つまり、そういう場へ行くことは、否応なしに「価値や優劣」をつけられに行く、ということでもあります。
そこで失敗すれば、落胆と自失の念に囚われることもあるでしょう。そして、
「自分は価値がない。必要とされていない。」
と思うかもしれない。

しかし、そこで立ち止まり、耳を澄まして聴いてほしい。次の質問を、大いなる自然に投げ掛け、その答えが出るのを。
「人為的な価値基準からこぼれた者に、存在価値はないのか?」
と。

自然は何と答えるだろうか?
やがて死を迎え、大地に還っていく人間に対し、収入や肩書きの多さで差を設けるだろうか?
時の流れは「駆け抜けてゆく」。
人間が辿る運命もまた同じ。
「そこに差はない。」
その答えを聴くまで、耳を澄まして待とう。
静かな環境がいいでしょう。
自動車、バイク、放送、飛行機・・・。
ノイズのある空間では、聞こえるものも聞こえない。
喧騒から離れ、自然の声に耳を傾けましょう。

旅立つ あなたに伝えたい 
とまどいや悲しみをこえること

木洩れ日が 空にクロスして 
虹のかけらになることを

「Tomorrow」作詞/作曲 杉本竜一

前半が情感を歌い、後半は情景を歌ってバランスを取っています。前節の「ほんとの気持ち」の具体的内容が書かれています。
環境が変わり、とまどいや悲しみに襲われても大丈夫。必ず越えられる。それは別に自己犠牲的努力によってではなく、「時の流れ」がぼくらに翼を与え、越えさせてくれるからなのだ、と。

自然に目を向けよう。
「木漏れ日がクロスして、虹のかけらになる。」
なんと美しい光景。
しかしどんな美しい光景であろうと、それを眺める者がいなければその美しさには意味がない。
あなたの目には何が映っていますか?
ビル、線路、コンクリート、電柱、自動車、虚飾のファッションと広告・・・。
何か大事なものを見落としていませんか?
とぼくらへ警告しつつ問いを投げ掛けています。
そして1番と同じくサビへ。
「明日を信じて 翼広げ 飛んでみよう」


3.おわりに

ということで、杉本竜一の「Tomorrow」の歌詞を自分なりに読み取ってみました。もっとコンパクトな記事にする予定でしたが、書いている最中にいろいろ思いついて付け足したら長くなりましたね。
普段のぼくはどっちかといえばメロディー重視派で、歌詞はあまりじっくり聴かないことが多いし、歌うときもあまり意識しないです(というか歌うのに精一杯で意識「できない」)。
けれどもこうやって1語1語意味を読み取っていくと、実に多様な解釈が可能で、歌詞の世界が広がるように感じました。大空を飛び交うように。
メロディーに適応する歌詞と心情、情景描写のバランス、自然な流れと解釈の多様性。
短いフレーズの中に、様々な創意工夫が凝らされていることを実感しました。
また機会があれば「合唱曲読解 シリーズ」やってみたいですね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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