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読書の記録 『知ってるつもり 無知の科学』

 関口宏の自伝かと思って買ったら違いました。自分に「喝」を入れてやりたい。だって上原が全然「喝」を入れないんですもの!

 さて。実は私、この春から週に一回、新しい環境で仕事をしており、そういった場所で仕事するには、まず、謙虚な姿勢で臨むべし!と考えたのと、あるいは、こうした本はネタになるのではないかという下心も込みで3月末に買って読み始めたものを漸く本日読み終えたというわけです。

 自転車がどんな構造をしているか、絵に描いてみることはできますか?自転車通勤の人なんかは「バカにするなよ」と思うかもしれませんが、私は多くの人が正確には書けないのではないかと思います。自転車でなくてもいいです。例えば、炊飯器はどういう構造をしていて、どういう理屈によってご飯を炊けるのでしょう。扇風機がスイッチ一つで回転するのはなぜ?ファスナーはどういう仕組みになっているの?その全てについて、私はしっかりとした説明ができませんが、そのすべてを問題なく使いこなせてもいます。「知ってるつもり」・・「無知の錯覚」。何も知らないくせに知った風に過ごしていることは、何も悪いことではありません。だいたいみんな、そうなんです。

 そうであるのに、「オレは知ってる、君は知らない」という態度を取られると腹が立つものです。先日、1970年代から80年代にかけての京都や関西の音楽シーンについて、当時をよく知るおじさまにインタビューをする機会があり、私はよくも悪くもテキトーに相槌を打ちながら興味深く話を聞かせてもらったわけなのですが、それを聞いていた別のおじさまに「君は何も知らないくせに知っているかのような相槌を打っていましたね」と鼻で嗤われたのです。

 そこには「君は僕よりも年下だし、当時はまだ生まれていないか、生まれていても幼かっただろうし、それに君は僕と比べて音楽にさほど詳しいこともないだろうし」という侮蔑のニュアンスが含まれていました。

 確かに私は、当時の京都や関西の音楽シーンについて、さほど知ってるわけではありませんが、では、それを指摘してこられたおじさまが、私と比べてどの程度、豊富な知識を持っているのか、といえば、そんなものは、小学生の100m競争で1秒か2秒の差がある程度のものでしょう。知識の無いほうが、こんなことを書くと負け惜しみのようでカッコ悪いですが、これ見よがしに自分より知らない相手を見つけて知識をひけらかす人よりは幾分マシだろうとも思います。

 個人の持ってる知識なんて五十歩百歩。というか、「個人の知識」って何でしょう。本書の解説で山本貴光さんが書いています。「ものを考えたり書いたりするのに使われる言語やそれを使って表された知識からして過去の人びとの共同創作物だし、創作に使われる各種の道具も誰かがつくったものだ。それに誰かとのおしゃべりや読書から思いついたアイディアは、果たして自分だけで考えたと言い切れるかといえばそんなことはない。私たちは、さまざまな形で他の人の知識を借りている。知識はコミュニティのなかにある。」

 とはいえ、この本、「知識の錯覚」が必ずしもダメなことばかりではなく、その錯覚により、育まれる架空の世界を想像するのは楽しいことだし、その想像により、夢のような事柄に挑戦する人が出てきて、実際にその夢を叶えてしまうことにもつながったりする。1961年の段階でケネディには60年代のうちにアメリカの宇宙飛行士が安全に月面着陸できると予想する正当な理由は一つもありませんでしたが、アメリカはそれを成し遂げました。ケネディの予測は、錯覚から生じた傲慢さによるものとしか形容できませんが、それでも成し遂げてしまったんです。ケネディが大それた野望を語っていなければ、アメリカは挑戦すらしなかったでしょう。

 春から始まった新しい仕事には、結局この本は全く役に立ってはいませんが、この本を読んだことによって、賢い人に劣等感を抱いてばかりの私は希望をもって生きていけるような気がしています。しかし、この本に書いてある内容を「理解」したと言い切ってしまうのも「錯覚」なのではないかと思います、という締め方をしようと決めていたところ、訳者の土方奈美さんが訳者後書きにて「これも本書を理解したという錯覚に基づく、訳者の見当違いな解釈にすぎないのかもしれない」と文章を結んでおられるのを読み、ニヤけてしまいました。いい本に巡り合えて、それを読み終えたときの爽快感たるや。読書って、本当に素晴らしいものですね。

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