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「青もみじ」はおかしいのか

 最近「青もみじ」という言葉をよく耳にするが「もみじ」は「紅葉」で読んで字の如し、紅葉(こうよう)している状態を言うのであるから「青もみじ」などという日本語はおかしい。正しくは「青かえで」と言うべきである。

 という意見を聞き、「もみじ」と「かえで」のことを調べてみたんです。インターネットの『森林・林業学習館』というサイトによると、
(以下引用)モミジもカエデも、どちらもムクロジ科カエデ属の広葉樹(落葉高木)の総称で、植物の分類上は同じです。モミジとカエデは、葉の見た目で使い分けています。葉の切れ込みが深いカエデを「○○○モミジ」、葉の切れ込みが浅いカエデを「○○○カエデ」と呼んでいます。例えば「イロハモミジ」「ハウチワカエデ」です。日本では江戸時代から多くのカエデの園芸品種が造られ、20数種存在し、秋にはさまざまなモミジやカエデを楽しむことができます。

 ということらしい。
 呼び名の由来についても書いてあったので以下引用しますと、モミジは、秋に草木が黄色や赤色に変わることを意味する動詞「もみず」に由来し、それが名詞化して「もみじ」になり、それから転じて、特に目立って色を変えるカエデの仲間を「モミジ」と呼ぶようになりました。一方、カエデは、葉の形がカエル(蛙)の手に似ているので、「かへるで」、後に「カエデ」と呼ばれるようになりました。昔は、カエデの仲間で、葉が手のひらのように切れ込んだものをすべて「かへるで」と呼びました。「モミジ」も手のひらの形をしているので「かへるで」と呼んだようです。そのため、今も「モミジ」と「カエデ」は同じ意味のように使われているのだと思います。例えば「イロハモミジ」のことを「イロハカエデ」と呼ぶこともあります。

 これを読む限りでは、確かに「もみじ」は「もみず」にその名は由来していますが、「もみじ」がイコール「紅葉」であるわけではないと言えそうです。「紅葉」と書いて「もみじ」と読みますが、紅葉していない状態の「もみじ」だって存在するわけです。
 近頃は「有観客」という言葉が定着しました。コロナ禍で「無観客ライブ」「無観客試合」などの表現が頻繁に使われることになったため、本来当たり前であった「観客がいる状態」が当たり前ではなくなったため「有観客」という言葉が誕生したわけです。言葉は時代や出来事によって変わるし生まれるものです。古くは単に「祭り」といえば「葵祭」のことを指したそうですが、いまや「葵祭」以外にも全国各地に「お祭り」があるので「葵祭」を単に「祭り」と言っても伝わらない可能性が高いでしょう。

 「もみじ」は「紅葉」の状態において話題にされることが多いものですから、いまでも紅葉(こうよう)のシーズンの「もみじ」は「もみじ」のままですが、新緑の季節、「青もみじ」がもっとこの先定着していけば、秋は「赤もみじ」あるいはイチョウなどについては「黄もみじ」という言葉が誕生するかもしれません。これは決して日本語の誤用ではないと思います。

 一つの使い方を「間違いである」と断じるのは簡単なことです。しかも、それによって「私は日本語をよくわかっているんだぞ」と相手に示すことができます。「雨模様は雨が降っていないときに使うんだよ」とか「力不足を役不足と言ったらいけませんよ」とか、こういうのは簡単です。そうやって「正しい日本語」から外れる言葉を使う人を「わかっていないやつ」と貶めるために「正しい日本語」というのはあるのかもしれない。恥ずかしながら、私もそういうタイプの人間であったことはここに告白しておきます。

 私見によれば、専門家ほど、「正しい日本語」を振りかざすことはしません。あらゆる可能性を吟味したうえで「その誤りはこのような原因があるのではないか」「このまま世間に認知されれば、やがて誤用とは言えなくなるかもしれない」というところまで考える人が多いように思います。

 例えば「雰囲気」は「ふんいき」が正しい読み方ですが多くの人が「ふいんき」と言ってしまいがちなのは、「ふいんき」のほうが言いやすいからです。「あらたしい」が「あたらしい」になったり、「あきばはら」が「あきはばら」になったりしたように、いずれ「雰囲気」も「ふいんき」が正しいとされるようになる可能性はあると思います。

 言語っていうのは、そうやって揺れるものでしょう。ジャズピアニストの山下洋輔さんによれば、寿司を「しーすー」などとひっくり返す業界用語のルールとしては、「六本木」は「ギロッポン」ではなく「ポツロンギ」が正しいらしいですが、「ギロッポン」が幅を利かせており、「ポツロンギ」だなんて言う人は一人もいません。

 さっきラジオで「荒げる」は本来「あらげる」ではなく「あららげる」だと言っていましたが、これも「ら」が続いているのが言いにくいから自然に変化して「あらげる」と読む人が増え、それが定着してきたのでしょう。このような変化は、感性が柔軟な若者の間で起こりやすく、感性が出来上がり凝り固まってしまっている大人たちからは生まれません。「青もみじ」は「青かえで」であるべきだ、という意見も大人発信でした。

 日本語の美しさを守らなければ、などと嘆く大人がいますけど、言語特有の美しさなんて別にありませんし、仮にあるのだとすれば、それは時代ごとに変化してこそ保たれる美しさなのではないかと思います。

 よく言われる「とんでもございません」なども、より丁寧に、失礼にあたらないように、発言者が謙り謙り謙りした結果生み出されたものでしょう。そうやって目下の人間に謙らせるのが「青もみじは青かえでであるべきだ」という、頑固さ、気難しさ、融通の効かなさなのではないか。油断すると自分もすぐにこの罠には陥りがちな人間なので気をつけなければ。

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