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チルいのに倍速視聴する人たち

 井上尚弥選手がフィリピンの選手と対戦している最中、空き巣に入られたらしい。留守にしていることは確実ですから、空き巣にしてみれば仕事がしやすいことでしょう。264秒で終わったものですから、空き巣も焦ったかもしれません。

 空き巣が焦ったかどうかはわかりませんが、世の中が忙しなくなっているのは間違いない。若い世代を中心に映画やドラマの「倍速視聴」や「10秒飛ばし」といったタイムパフォーマンス(時間効率)を重視した視聴スタイルが広がりつつあるといいます。「慣れ」というのは怖いもので、そうやって倍速が当たり前になると、通常の速度が遅く感じるものです。高速道路を降りてすぐの時速60キロは、めちゃくちゃ遅く感じます。やがて倍速でも遅く感じるようになり、四倍速八倍速が当たり前になれば、100メートルを8秒台で走る選手が出てくるかもしれません。しかし、寿命は縮まることでしょう。セックスは、ゆっくり濃密に愛を確かめ合うという行為ではなくなり、いかに早く効率的に済まし、子を産むか、ということに重点が置かれるようになるでしょう。ニワトリのケージ飼いのようなことが推奨されるかもしれません。

 しかし、そのような世界が悦ばしいはずはない。倍速視聴を楽しむいっぽうで、彼ら彼女らは「チルい」過ごし方を模索していたりするのです。「チルい」は、英語で「落ち着く」を意味する「chill out」に由来する言葉で、「心身の緊張を解くような、心地よさが感じられる様子」を指し、新型コロナウイルス感染は落ち着いてきたけど、休日も外出せず家で動画を見る、というような過ごし方を「チルい」と表したりするそうです。競争社会に背を向け、大都市の若年層が地方都市に移住するアメリカしかり、「寝そべり主義」ともいわれる、あえて頑張らないライフスタイルを指す「躺平」が若者の間で流行する中国しかり、こうしたギラギラしない生き方が、どうやら世界的に広がりを見せているらしい。

 しかし、そうして「チルい」過ごし方をしているくせに動画は倍速で視聴する、というところに何か歪んだものを感じてしまいます。頑張らず程よく生きようという感覚を抱きながら、時間には追いかけられているわけです。倍速視聴する心理のなかには、「はずれを見たくない、はずれの時間を過ごしたくない」という文化が強まっているのではないか、という分析もあります。こういうところにも、窮屈さを感じます。合理的効率的に社会の歯車となり、生きていくことに反発するいっぽうで、そうした社会を生きてしまっているがゆえに、失敗をしたくない、時間を有効活用したい、という心理ができあがってしまっており、いかにして、そのバランスを取るか、試行錯誤しているようでもあります。

 面白いのか、面白くないのか、なんなのか、よくわからないものに触れて、時間やお金を無駄にしてしまうことによって得られるものを放棄してまで、効率的に生きようとし、そのうえ、暮らしに「チルい」を求める、つくづく、人は欲張りなのだ。

●6月10日 産経新聞『産経抄』
●6月10日 朝日新聞文化面『倍速視聴 現代を生き抜く戦略』
●6月10日 京都新聞文化面『低成長、現状維持でOK』 の記事を読んで思ったことを書き留めました。新聞って面白いですね。

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