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ワーク・ライフ・バランスの変遷と幸せについて考えてみた時の話

企業法務の人です。かれこれ企業法務を15年以上やってきてますが、その間にプライベートの結婚・子育てと仕事・勉強の両立について何度も苦労したので、人生の振り返りとともにその辺の変遷を記しておこうと思います。
巷では法務系Advent Calendarで、Twitterの強い法務の方々が有用なアウトプットを創出しており、楽しく/時に眉間にしわを寄せながら拝見しておりますが、本エントリーは「サボる方向に頑張った」記録でございます。

入社~満3年まで『モーレツ期』

入社後、前任者からの引き継ぎはろくにないまま「ぼっち・ざ・法務」でしたので、夜遅くまで働きました(とはいえ残業100時間を超えたのは数えるほどですが)。契約レビューなどしたことがありませんでしたし、上司(部長)は経理・財務畑の人で、法務の業務は前任に丸投げ状態でしたからダブルチェックなどできません。課長はおらず、直属の上司が部長でしたから、ルーティン業務まで面倒を見れない状態だったものと思われます。なので、何かある度に①過去の資料を引っ張り出して内容を洗う、②関連書籍を洗う(当時は自分で本を買うという発想もお金もなかったので、会社内にあるもので)、③インターネットで調べる、④顧問弁護士に頼んで、何とかかんとかやりくりしてました。
幸いなことに「経営法友会」に加入していたので、会員に配られる「企業活動の法律知識」という本が企業法務という仕事を知る上で、とても役に立ちました。(普通に販売する価値がある本だと思うんですけども、売ってはいないですね)

ひとり法務経験者であれば、概ね共感してもらえると思うのですが、「ひとり」は、とにかく何をするにも時間がかかります。知見を持っている人が近くにいない、相談先がない。だから自分で結論まで出さなければならない。結論を出すためには一から自分で調べつくし、得られた情報を整理し、上司に説明しなければなりません。石の上にも3年、とにかくコツコツ時間をかけてやりました。今すぐ契約チェックしてくれという要請もありましたが、遅いとお叱りを受けることもありましたが、急ぎの場合は弁護士丸投げもOKだったので、本当に最初の頃は顧問の先生にお世話になりました(お金もたくさん使わせてもらったと思います)。

社会人3~4年はお金もなく、実家に住みながら1.5~2時間かけて通勤、最寄り駅までの終電は22時台と早かったために、23時台発・2駅手前までの終電で帰り、1時間歩くことも多かったです。結局家に着くのは0時過ぎ。往復の通勤電車はほぼ満員でしたが、座ったら即寝だったし、ひどい時は立ったまま寝てました。当時もつらかったですが、今だったら1時間電車に乗るのも無理です。よく頑張った、当時の自分。

こんな感じで法務キャリアをスタート。1年目ではビジネス実務法務検定2級に落ちたりもしましたが、2回目で合格、ある程度契約書レビューに慣れて勘所がわかるようになり(顧問弁護士の修正履歴も少なくなって独り立ち)、慣れてきたと思ったら組合との団体交渉で賞与・賃金交渉があり(人事部門が主体だが労働関連の紛争も法務で対応していたので同席・議事録係)、これまた「組合とは」「団体交渉とは」を学習しながら過去の団交記録を掘り起こし、息つく暇なく株主総会シーズンに入り、またまた「株主総会とは」から学習を始め、株主名簿管理人や招集通知作成システムを提供する某印刷会社の手引きを読み込み且つ過去の資料を調べながら何とか招集通知を作成、想定問答も作成、議事録を作成、登記手続(司法書士へ委任)を終え、と安堵する暇なく訴訟が勃発したりなど、本当に怒涛のような毎日を過ごしていたように思います。

あらゆる仕事が「初めて」だったので、とにかく理解することが仕事でした。酒もたくさん飲みましたが、残業もいっぱいした、それがモーレツ期。

20代中盤~後半『アウトドア期』

アウトドア期は、転職活動と外部交流の話です。
契約レビューは、3年もするとだんだん慣れて勘所がわかってくるので、調子に乗ってきます。法務という機能が、いろいろな人から「相談される立場」であることも影響し、かなり生意気な態度をとっていたように思います。仕事内容も、更に知財担当のフォローが追加されるなど増え続けていき、そうなるとだんだんと就業環境に不満を抱き始め、転職しようかなーなどと考え始めます。27歳くらいでしょうか、二度目の転職活動をしてみたのですが、どこかの会社で、契約書ではなく「論文を書け」みたいなテストがありました。それまでに契約書チェックは問題なくできるようになった(そう思い込んでいた)のですが、このテストでは、手許に六法が置いてあり、条文を調べて当てはめができないと「お話にならない」レベルの試験でした。
 自分は、それまで会社法、商業登記法、特許法、商標法くらいしか六法を開かず、普段使いする本も実務書や書式集ばかりだったので、このテストを受けて「あ、自分のレベルはかなり下なんだな、マズイな」というのを自覚し、法律を基礎から学ばなければ自分に価値はないなと強く感じました。
とはいえ大学で買った専門書は全て売り払っており、本棚を埋めているのは漫画でしたので、専門書を買い集めることもできず(この時もまだ貧乏で何千円もする本など買えず…)、資格から入ろうとして、行政書士の勉強を開始。だいたい残業した後の21~23時か22時~0時まで勉強していました(誘惑に負けて酒を飲むことも多々…)。
やってみて感じたのは、本当に何も理解できていなかったんだなということと、法律をしっかり理解できてないなら法務とは言えないなということ。気付くのがかなり遅かったですが、これを機に勉強をする習慣が身についたように思います。

次に外部交流の話ですが、自分のレベルを自覚してから、転職できるほどの価値を持っていないと思ったので、勉強するとともに、法務としてのキャリアに悩むことも多くなりました。
経営法友会で、若手法務担当者の交流会というものが毎年行われていましたが、もう若手の要件から外れてしまっていたため、それ以外のイベントを心待ちにしている状態でした。そうしたら都合よくイベントが企画されたので、そこに参加してみたり、今は無き雑誌「Business Law Journal」を定期購読し始め、中にサービス紹介のあったAI自動翻訳 「T-4OO」(広告主は、今は吸収合併されてしまった(株)More-Selections)を見つけて問い合わせをして、当該会社の代表の方と名刺交換をしたことがきっかけで、アフターファイブに法務担当者が集まる場をご案内いただき、何度か参加したりなどして、他社の法務の方と話す機会を増やしていきました。いずれもその場の交流はできたものの、名刺交換するだけで次につながる活動にはなりませんでしたが、視野を広げる良い経験だったと思っています。

「自分の市場価値」と「外」を気にするようになった、アウトドア期でした。

30代前半~『ちょっと落ち着いてきた期』

仕事的には、初めて法務の後輩(後の部下)を採用し、マネジメント方面を意識するようになりました。法務担当は引き続きでしたが、人事・総務の管理職が、入ってもメンタル不調を起こしたり、すぐに役員に愛想をつかすなどして、1年も経たずに辞めることが続いていたので、自分が人事・総務を兼務してプチマネジメントもすることになり、さらに忙しさに拍車がかかりました。
そんな折、労働安全衛生法の改正(ストレスチェック義務化)で改正法を調べていたら「衛生委員会」を行っていないことがわかりました。人事・総務には、自分より若手しかおらず、一切の知識を持ち合わせていません。当然、衛生管理者も産業医もいません。
すぐに上司(取締役)に報告したら、「お前が衛生管理者の資格を取れ」から始まり、安全衛生委員会を立ち上げ、産業医を外から見つけてきて、以後6年間運営しました。事業部側で退職した人から「会社の仕事はつまらなかったけど、安全衛生委員会は楽しかったよ」と言ってもらえたのは、結構嬉しかったです。人からの評価などいらないと今でも思っていますが、実際に感想をいただけると、それはそれで嬉しいものです。

安全衛生の仕事をし始めてから、安全衛生の域を超えて、従業員の働き甲斐や、エンゲージメントを高める施策を考えてみたり、だんだん「何で働いてるんだろう?」という疑問が出てきたり、この時期から妻との交際を始めたので、仕事以外に充てる時間配分が難しくなり、いろいろ悩み始めました。

30代半ば~『働きたくない期』

本エントリーの本題です。
さて、30代になっても忙しく残業するし試験勉強も続けていましたが、ストレスチェックが義務化されて以降、高ストレス判定がずっと続いていました。ストレスは高いとダメかというと、そういうわけでもないようです。
(↓の本は読んでないけど、講演で「いいストレス」と「悪いストレス」があって~といったお話をされていました)

高ストレスの場合、産業医と面談をする(そういう制度にした)のですが、産業医は自分が見つけてきた人なので、勝手知ったるというか「ああ、けんおじさんはダイジョーブダイジョーブ(笑)」とものの数秒で高ストレス者としての面談は終了、あとは雑談してるようなものでした。
この産業医の先生、自分より5つ上の3人の子持ちパパですが、残業時間をいつも気にかけていて(正直、36協定の長時間残業年6回など守れてなかったので)、「早く結婚しましょう」を繰り返し言っていました。結婚というプライバシーの問題に触れられるのは嫌な人もいるかと思いますが、自分は考えてはいたので気にもならず、まあそうですねーと言いながら話だけ聞く感じ。

さて、実際に結婚しました。
するとどうでしょう。
残業が減りました!!

なぜ残業が減ったんでしょうか。
結婚をすると、同じ家で「一緒の時間」を過ごします。
この「一緒の時間」がポイントです。
我が家は共働きで妻もフルタイム勤務でしたので、残業を2時間もしていたら、一緒に晩ご飯を食べられないのです。
一緒にご飯を食べるつもりで毎日生活をしていますので、当日、定時後になって「残業する」などと言うわけにいきません。仮に言うとしても、残業時間を見越して何時までに終了する見込み、などとスケジュールを再構成し、その結果を伝達するくらいのことをしなければなりません。
ここまで必要かどうかは各家庭の考えによりけりでしょうが、我が家では「一緒の時間を過ごす」の優先度が高かったので、こういった残業時のルールを設けて連絡を取り合っていました。妻側はほぼ残業発生せずでしたので、主に自分がこまめな連絡をする立場になります。
(Twitterでは、こういうことをせずパートナーへの配慮が見られない方が少なからずいますが、そういう方々には「一緒の時間を過ごす」という考え方が無い/又は重要視されていないのだと思いますので、我が家とは違うのでしょう)

当時はまだ子供がいなかったので、わりと流動的に対応していましたが、「残業は19時30分まで」をリミットとしました。
すると、だいたい2時間/日の残業になるので、20営業日フルで残業したとしても、40時間程度の水準となります。

産業医の言ったとおりになりました。
で、残業が減った分、仕事は滞ったかというと、なぜかそういうことでもなく、むしろ勤務時間中の集中力は高まり、決め事への意識(決める、何としても今ここで決める!という強い想い)も高まり、タスクの取捨選択も早くなり、総合して生産性が爆発的に上がりしました。
と同時に、どうしても仕事を早く片付けるためには自分から仕事を手放して他メンバーに対応してもらう、自分はチェックに回るといった運用をしなければ全体が回らないため、判断基準を明確にしたり、同じ人が同じ作業をずっとし続けるわけでもないので、マニュアルを整備するなどのナレッジマネジメントに手を出し始めました。

今~『残業は悪』

今は子供が生まれ、自分の時間が全くありません。
夫婦だけであれば自由に使えた時間も、子を優先すると文字通り「一切」無くなります。小さい子をお風呂に入れるため、今では「残業19時30分まで」から「自宅に19時30分までに帰る」を貫いています。ますます残業が減りました。
これを遵守できなければ、妻が1人で子をお風呂に入れ、晩御飯を食べさせ、寝かしつけるというワンオペに陥るためです。ワンオペは自分も嫌です。なのでパートナーにその苦労をさせないことを最優先事項に定めています。

子が生まれたあと、すぐにコロナが流行し、在宅勤務もできるようになりました。そのため、コロナ以降の残業は、月10~20時間で推移しています。
(在宅勤務ができるゆえ、夜中~早朝、休日の隠れ残業は発生してしまってますが、これは自分がやろうと思ってるやってるので、まあ…)
かと言ってフルリモートではなかったので、出社は必ず発生します。子の保育園が決まったとき、登園とお迎えのスケジュールを妻と検討しましたが、このままでは朝の出社時間で保育園登園に支障が出ると判断したため、転職しました。

子育てがワンオペに陥らないようにするには、「なるべく残業しない」ではなく「できない/やらない」という強い想いが必要です。
よって、残業は悪です。その分、他の人にしわ寄せがいってしまうのなら、仕事そのものを見直す必要があるでしょう。自分がマネージャーとして配分を決める時は、割り振りよりも「この仕事自体を無くせないか、無くす方法はないか」を最初に考えるようにしています。転職後もこの考え方は変えていません。

IF~

今はこんな生活ですが、「もしも」を空想することも多いです。
もしも結婚していなかったら
もしも子供がいなかったら
もしもめちゃくちゃ勉強していたら
もしも前の会社に入社してなかったら
もしも前の会社で今でも働いていたら
などなど。

考えても仕方のないことですが、人生は先に進むのみで元に戻らないので、自分に納得のいく選択をして生きていきたいものです。

以上でした。

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