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SNSの写真投稿で「消費」されるあなたについて

フィルムで写真を撮っています小山ひときです。

今日は「SNSに写真を投稿すると消費されていく気持ちになる」ことについて、ぼんやり考えていたことを書き残したいと思います。

私はあまり「消費」の感覚がないので展示に使用する写真もSNSに載せたりするのですが、たまに「写真を載せると消費されるから嫌だ」という投稿を見かけることがあります。本当に「消費」されるのか、何が減っていくのかを夕方の車の中で考えていました。

SNSでの写真の消費は「本屋の立ち読み」な気がする

最近、三島由紀夫の「不道徳教育講座」なる本を読んでいます。初めての三島作品ですが、思ったよりも(勝手なイメージで激しくて野生的だと思っていました)大変紳士で言葉も丁寧でしかも読みやすく、それでいて人間が見えるようでファンになりました。
※ちなみにこの本では、様々な不道徳がいくつも考察されています。

そうして思いました。SNSで写真が「消費」されるなら、過去の文豪たちも、立ち読みをされたとき「消費された…」と思っていたのでしょうか?

本屋で平積みされた本をパラパラ読みする。有名な作品や過去の文豪が書いたような本でも本屋やウェブでパラパラ読みされる。私は文豪ではないので文豪の気持ちはわかりませんが、これはSNSの投稿で感じる「消費」とは違うような気がしています。商業ベースに乗っている時点で「消費」される気持ちとは離れるのでしょうか?

もしそうだとしたら

立ち読みが「消費」ではないのはなぜなのか。
「消費」されるとして、減るのはなんでしょうか?

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減ると感じる条件は「対価」の有無ではないか?

なにかを「消費された」と感じたとき、何が減るのでしょうか。
減るのは自分の気持ちではないか?ではどんな気持ちが減るのか?

まず「消費」ってなんだっけ、というところを念の為に検索しました。

しょう‐ひ〔セウ‐〕【消費】
1 使ってなくすこと。金銭・物質・エネルギー・時間などについていう。「ガスを消費する」「消費電力」
2 人が欲望を満たすために、財貨・サービスを使うこと。「個人消費」weblio(最終閲覧日:2020年3月28日)
https://www.weblio.jp/content/%E6%B6%88%E8%B2%BB

今回の話だと、2のところに当てはまる気がします。
見られることで相手の欲望が満たされる。それによって自分の「なにか」が減っていく。本屋の立ち読みが作家の消費ではないのは、その本を購入して手にするための窓口にもなっているからで、手にするときには対価が発生するからサービスの利用になって作家にもメリットがあります。

ではSNSでの消費には対価はあるのでしょうか。
SNSでもフォトブックを販売するときにその中身をチラ見せするのなら、そんな場面なら自分の気持ちは恐らく消費されない気がします。

これはどうやら「対価がないときに、わたしたちの、彼や彼女の何かが磨り減ることがある」気がしてきます。

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消費にはいくつかのパターンがある

wikiをみてみると消費にはいくつかのパターンがあるようです。詳細は書かれていなかったので更に検索してみると、以下のようなことになりそうです。


1)記号消費
→性能ではなく、デザイン、ブランドネームなど製品に付与された「意味の記号性」によって形作られた価値のこと。
2) 機能消費
→機能性に特化した商品の消費のこと。
3)快楽的消費
→消費すること自体が目的の消費活動。感情やイメージが選択の基準となる商品。それ事態が快楽であるかのような消費のこと。音楽や映画の鑑賞、スポーツやゲーム、ウィンドウショッピング等。
4)  顕示的消費
→社会的地位を誇示するために消費すること。消費することで周囲から羨望の眼差しで見られたりするような消費。

となると、SNSでの写真の消費感は、相手がどんな消費の仕方をするときに生まれるのでしょうか?間違ってるかもしれませんが、少しイメージしてみました。

1)記号消費
「○○さんの写真がすき!○○さんの写真なら好き!」という楽しまれ方かな。森山大道さんの写真なら無条件に消費するみたいなイメージ。
2)機能消費
商用の話かな。もしくは写真の撮り方豆知識のような内容でしょうか。
3)快楽的消費
写真を見ていると癒やされる、気持ちいい、写真がすき。
4)  顕示的消費
写真やアートに興味がある、それが理解できる気がする自分が好き。これがわかる私は素敵、みたいな消費の仕方かも。

これは個人的な見解ですが、4)顕示的消費をされるとき「消費される」と感じるのではないでしょうか。対価なく、相手の欲の利益に使われる、利用されると思うから嫌な気持ちになるのではないでしょうか。

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「消費」される人とされない人の違い

ぼんやりしていたことが、ほんの少しだけ姿が見えてきたような気がします。霧の中に、あれ、あそこに人がいる?気がする、程度の解像度ですが…。

SNSに写真を投稿してなにかが減る人と減らない人がいます。
私は気持ちが減らないタイプです。理由はなんとなく自分ではわかります。私の載せる写真は「きれいだったよ〜」「素敵だった…」「こんなものをみたよ」、或いは心の解決として作った作品で「人が見ることで完成する」から。人が見ることで自分にも対価があるタイプだからです。

では減る人は何を誰にもぎ取られるのでしょうか?実際にはもぎ取られていなかったとしても、ではなにが取られると感じるのでしょうか。

浅ましいと言いたいわけではなくて、自分の気持ち、自分がきれいだと思ったり大切にしたい時間だと思ったことの「大切さ」を誰かにわかって欲しい。大切にして欲しい。認めて欲しいという人間らしい気持ちがそれ消費と考えさせて心を削るのではないでしょうか。

自分の大切なものが、相手の欲に使われることが嫌だ。
もし、写真を投稿したときにみんながみんな3万人がいいねして、3万人がその大切さを共有してくれるならSNS投稿で気持ちは減らない?

おや。

これは想像でしか有りませんが、私はそれでも「減る」と思う。
じゃあなにが減っていくのでしょうか。これは自分がSNSに投稿したくない写真について考えてみると答えが出てきそうです。

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私の「SNSに投稿したくない写真」

対価がどうとか、本当にそういうことなんだろうか。消費される感覚が自分にはないけれど、載せたくない写真は確かにある。じゃあ、私が載せたくない写真ってどんな写真だろう。

考えたところ1つだけ思い当たりました。

私は、主人の写真はSNSには投稿したくありません。
理由は「嫌だから」です。本当は誰かに見せたい。特別大切に思う写真が何枚もあります。我慢できなくて、実はたまに投稿するときもありますが1日もたずに消してしまったり、主人だとは言わずに載せたりすることも稀にあります。

SNSに投稿したくないと思う理由は
「この人はそういうんじゃないから」
それがしっくりくる言葉でした。

そういうんじゃない。

誰かにいいとか悪いとか、いいねとかよかったねとか、そういう気持ちをもらいたい存在ではない。きれいだったよ、見てみて!素敵だったんですよ!美味しかったよ!あったかかったよ!そういうのを、誰かに伝えたい存在ではないからだとわかりました。

でもきっとそれだけではなくて、カメラに無防備なあなたが見せているその顔を、なんだかおおっぴらに知らない人に見せるのは嫌だから。無防備な人の後頭部を、後ろからこん棒でぶん殴るような気持ちになるからです。
(後姿やカメラを構えて顔が隠れている場合は自分の中でギリオッケー判定です)

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あなたはなにを「消費」されますか?

人の気持ちが荒れる時、願いや理想や自分のかかえる問題や価値観が浮き彫りになることが多いように思います。SNSの写真投稿で消費されると感じる人だとしたら、あなたはなにを「消費」されますか?

序盤で文豪は消費されていたのか?という話をしましたが、文豪の作品が消費されないと思うのは、対価の問題などではなく他人事だからではないか?自分がその作家なら消費されていると感じるのかもしれない。

人によって消費されるものは違うのかもしれない。それでもみんなが消費という言葉を使うのだから、やはりなにかが消費されている。


消費されたと感じるものが「あなたの大切なもの」

結局、誰かのことをわかったつもりになっていても自分のことは自分にしかわからなくて。いろいろと考えてはみたものの、私は自分の気持ちしかわかりませんでした。

あなたが「消費される」と感じるものは、なぜ消費されると嫌なのでしょうか。記念写真でもスナップでも大切な人の写真でも、SNSに投稿したくない写真の種類も理由も、人それぞれに違う気がします。

でも、それが「とても大切なものだから」という理由は多分間違っていない。

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