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大切な人にこそ、切り捨てられたい

こんにちは、今日はメンタルが下降気味の小山ひときです。今回は、自分の運転の仕方みたいなことで私が気づいたことを記録したいと思います。また、最終的にタイトルにあるようなことを思います。

皆様はお元気でいらっしゃいますか?私は今日ぼちぼち底辺にいます。生きていると、上がったり下がったり、色々ありますよね。なにもないのに悲しくなってしまったり、昔のことを思い出したり。いつもはそうでもないことが気になって、それから逃れられなくなることがあります。なんでしょう、天気のせいですかね。

なんだか悲しい、とってもメランコリー

なんという頭が空っぽのタイトルでしょうか。
書いていて、自分でメンタルが下降しているのがどうでも良くなってまいります。なんかもうどうでもいい。でもこういう作りになっているから、多分ものをつくるんじゃないかなと思います。

物を作らない人ってこういう気持ちを解消する手段がないままに生きているのかと思うと、どうやって何とかしているんだろうと想像ができなくて勝手に心配になったりします。お元気ですか、そうですか・・・。

大人になってもメンタルの上下にやっつけられる事がありますが、30代になってから「すべてのことは自己責任」「自分の機嫌は自分で取る」ということを覚えました。これは便利だ効率が良いと思ったので、書いてみたいと思います。


私は私の意思で決定して、生きるし死ぬ

人生の中でそこそこ色々ありまして、立ち上がれなくなるようなこともありました。そんな時に、そばにいてくれた人が私にいいました。

「ひときさん、あっそ〜れ!じっこせっきにん!
 じーっこせっきにん!!」(笑顔で軽快な手拍子付き)

絶望の淵に居た私は思いました。馬鹿野郎。なんだそれひどいぞ。でも、茶化されている間になんだかしっくりきてしまったのです。自己責任。今いろんな事が起こっていたとしても、それを選んだのは自分。
そうなる原因を潰さなかったのは自分なんですよね。確かに。

・仕事で人間扱いされなくて辛い。
・社長が激烈セクハラオヤジで気持ちが悪い。
・実家との折り合いが悪すぎて意思の疎通ができない。
・身内で脅迫まがいのことをしてくる人がいる。

それ選んでるの、自分じゃん

家族でも仲良くしなくてはいけない理由なんて無い。
連絡先を伝えておかなくてはいけない理由なんて無い。
仕事も自分の意志でその会社にいるわけです。

結果、次の就職先も決めないまま退職して転職、家族から連絡が来ないように携帯を変えて連絡を絶ちました。すごく不安だったけれど、
訪れる圧倒的平和。

それ以来なにかが起こった時、小躍りしながら手拍子をして自己責任の踊りを脳内で再生するようになりました。できるだけ茶化すのが良いです。おすすめします。私達は、私達の生きる場所や人を選んでいい。
こうあるべきだとか、そんなことは関係がないと断ち切りたい。
私が生きることに責任を持てるのは私だけだからです。


「自分の機嫌を他人に取らせる」ということ

もう1つ覚えたのは「自分の機嫌は自分で取る」ということです。これができてると劇的に生きるのが楽になる。そんな気がします。

自分のこともわからないのに、人のことなんてわかるわけないというのが持論ですが、自分の機嫌が悪い事を誰かに解決してもらおうなんて無理だと思います。ムリムリの無理の無理ゲーです。だいたいそういうのって、大切な人や好きな人に向きがちですが、やめてやってよ大切なら、と思います。

大切な人にしか見せられない顔とか気持ちってあると思います。私もそうです。限界になった時、死んでしまうくらいなら吐露して欲しい。
でも、他の人の強度はわからないからアレなんですが、私は自分の強度はある程度わかってきたのでできるだけ自分で自分の機嫌を取るようにしています。いいよって言われても。私なら1人で生きられると今は信じています。

贅沢して好きなものを食べてみる、回らないお寿司にいったりうなぎを食べたり、1人焼き肉をする。行きたいところに行ってみる、やりたいことをやってみる。リラクゼーションの贅沢めのコースで体をほぐす、1人で美術館に行く。そんなことをして自分を甘やかして、あとはたくさん寝る。

心と身体の両方が辛いとどうしようもなくなるので、せめてどちらかを解消することでバランスをとって自分のご機嫌を取っています。片方をクリアするともう片方が暫くすると上がってくるような気がします。
すべての人がこうだとは思わないのですが、自分の癖をみつけて対応できるようになると、とても楽になると思いました。

大切な人にこそ、切り捨てられたい

1人で生きられるから、大切な人を守れるって今は信じています。
目の前の大切な人が悲しくて物理的にも精神的にも起き上がれなくなった時、きっと私も死ぬほど悲しい。そんな時に、私が倒れたら大切な人は死ぬと思います。

大切な人にはいつも笑顔で居てほしいし、できるだけ長生きして欲しい。私が物理的にも精神的にも起き上がれなくなったなら、幸せになるために私のことは切り捨ててほしい。その選択をさせたいから、私は1人で生きられる強さを持ち続けたいです。

話が終わった時、よく「お後がよろしいようで!」って言ったりしますね。これは落語などで噺が終わって、次に高座に上がる噺家(落語家)の準備が整ったという意味で言うようです。

私は1人で生きられる。自己責任で思いっきり自分の人生で実験して、楽しんで生きて満足して死にたい。1人になれたからようやく、人とまともに関われるって思います。

さあ、お後がよろしいようで!


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