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【詩集】外山功雄のODEXVAGの感想

外山功雄のODEXVAGを読んで、思ったことを書いていきます。間違ったことを書くかもしれませんので、そこはご了承願います。

 外山功雄の詩は異形だ。
 間違いなく日本語で書かれているのにも関わらず、読んでいて全く意味が分からなかった(すみません)。ただ、あまり難解な単語が用いられてはおらず、そうではない部分も見受けられるが比較的平易なものが用いられている。さらに、「サイキョ―」「イチコロ」「コロン□」などといった良く言えばキャッチ―な、悪く言えば軽い単語が度々詩の中に挟まれている。加えて上記のような単語がリズミカルに並べられており、陳腐な物言いにはなるが一つの音楽を形成しているように思えた。
 
 平易かつキャッチ―な単語の選択、リズミカルな構成、これだけ聞くと外山功雄の詩は親しみやすいものに思えるかもしれない。しかし、これらの材料を用いているのにも関わらず、外山功雄は異形をつくりあげてしまっている。これは外山功雄が、いくら平易でキャッチ―な言葉でも、それを過剰に用いる、つまり情報を詰め込むことで奇妙な文章を生成し、なおかつこの作業にリズムを添えることによって、詩全体に独特な盛り上がりを発生させることに成功したからなのではないかと私は考える。
 
 外山功雄は、やけに重苦しそうに重要そうなことを、難解な言葉を用いてブツクサと語っているわけでは決してない。だが、平易でキャッチ―でリズミカルであるにも関わらず訳の分からない文章を連発しており、一切の理解の隙すら与えないにも関わらず謎の盛り上がりを見せ、読者を楽しませてくれる。接しやすいがどこか接しにくい。外山功雄はこの中間地点を維持して詩を書くことができているように思える。いずれかに極端になることは比較的簡単なことなのかもしれない。ある一つの要素にだけ目を向けていればそれでいいからだ。ただ、中間を保つとなると、複数の要素に目を向け、一方に偏りが生じないよう気を配らなければならない。外山功雄の凄いところは、接しやすさと接しにくさの両方の側面に過剰になることでバランスを取ったことにある。決してどっちつかずではない、繊細かつ豪快な作業を、外山功雄はこの詩集でやってのけたのだ。
 
 しかし現在において、そんな外山功雄を評価する人はどれだけいるのだろうか。もはや名前すら忘れ去られているのかもしれない。およそ1998年から2000年にかけて現代詩手帖の投稿欄で活躍し、野村喜和夫や城戸朱理の両氏(特に野村喜和夫)に高く評価され、所謂「ゼロ年代詩」の先頭を走っていたであろう詩人が、私が知らないだけかもしれないが、なぜこうも語られないのか不思議でならない。


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