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イタリアとラグジュアリーは無関係、という話

(ミラノボッコーニ大学のS.Savioloが指摘するように)ラグジュアリーの母国がフランスであるのに対し、イタリアはグッドテイスト(Buon gusto)を基本的美学とする国です。このことは、冒頭の図として示せます(以下は拙著第4章の内容に基づく)。
 ラグジュアリー(lusso)という言葉に対して、イタリアの様々なデザイナーや起業家が、異論を唱えていることは様々な文献で確認できます。
たとえば、Kartell創業者G.カステッリィは、「ラグジュアリー(lusso)は過剰なもの(sovrabbondanza)として体験されるので、デザインの世界に属する人にとっては、ラグジュアリーという言葉は否定的な価値を持っている。」と述べ、また、デザイナーのA.メンディーニは、「ステイタスシンボルであるラグジュアリーは昇華の次元を欠いているがために、特権階級のための玩具(gadget)になってしまう。昇華とは、芸術的に崇高で高貴なものへと対象を高めることであり、そういった対象は、ユートピア的なシナリオを持つ詩や神話(象徴的な次元)を予感させる一方で、対象を使う人に対しても尊厳(dignity)を与える。」としています。さらに、G.アルマーニは、「ラグジュアリーという言葉は、無駄遣いやこれ見よがしの派手な消費という含みがあるため好きではない。」と述べています。デザイナーのS.アスティも、「グッドテイストの代わりにラグジュアリーという言葉を使えば、信念や自分自身と世界を意識し、それを尊重するといったことが不在であるという(ラグジュアリーという言葉が持つ)悪い傾向を隠すことになる。」と述べ、ラグジュアリーという言葉を使うことの危険性を指摘しています。

 他方、Domus建築学校の初代校長であったG.ドルフレースの主著は、Le Oscillazioni Del Gusto(テイストの変化)であり、デザイン理論家のR.De Fuscoやファッション研究者のV.Codeluppiもテイストに関する書(Il Gusto)を記しており、イタリアの根本的な美意識が、グッドテイストであるかどうかということが分かります
 何がグッドテイストなのかをドルフレースの書の中で探っていくと次のように記されています。「アールヌーボー様式において、下品/悪趣味(Cattivo gusto)とは、皮相的な装飾品と冗長な飾りつけを作るためだけに新たな技術や素材を利用すること―そのことは、当時流行したハイショルダーの袖(maniche à jambon)のような一時のファッションをもたらすことになる―であり、他方、アールヌーボー様式が今までないような建築上の刷新/革新を通じて新たな様式美を確立し、グッドテイストなものになった例として、建築家ヴィクトル・オルタ(Victor Horta)による人民の家(Maison du Peuple)や、ガウディのミラ邸(Casa Milá)などがある。(Dorfles,1970,.op.cit.,pp.51-52)」
 他方、悪趣味(Bad taste)なものの具体例としてドルフレースが挙げるのは、消費を煽るための歌、ピンク映画、庭などに置かれるテラコッタ製のこびと、材料にセメントを用いた古代の彫像、写真に吹き出しでセリフを入れた漫画本、サンレモ音楽祭、通俗小説、などです。

 イタリアンデザインの特徴を定義した前のnoteで、グッドテイストの三つの性質を挙げました。第一の性質として、空間全体の様式美を考慮する点が挙げられ、もしラグジュアリーなものが室内装飾や街並みが備えている雰囲気を壊すならば、それは悪趣味となります(デラ・カーザ『ガラテオ』でも指摘されているように、貧しい街で着飾って歩くことは、貧しい人たちを侮辱することであり、はしたないことであるということです。)。第二の性質として、社会的地位を誇示するためのラグジュアリーと対立する側面を指摘しました。具体的には、(a)(ハレとケを分けないライフスタイルにおける)下からの趣味の洗練、という意味での民主的な側面と、(b)これ見よがしに派手な浪費を行うのではなく“さりげなさ(sprezzatura)”あるいは“くったくのなさ(desinvoltura)”を良しとする側面があります。第三の性質として、グッドテイストが流行に左右されないという点を挙げることができます。
 このうち、第二の性質については、『カスティリョーネ宮廷人』における記述が参考になるでしょう―「気品(grazia)は、わざとらしさ(affettazione)を避け、さりげなさ(sprezzatura)からもたらされるのであり、階級差を誇示するために、これ見よがしに派手な浪費を行うことは、気品とは程遠いことである―さりげなさは、“人に自然らしい、巧まない印象を与えるある種の気のきいた磊落さ、無頓着さであり、計算されたものでありながら、人にはそれと悟らせないだけの才覚を伴ったもの”である。気品はまた、さりげなさと同義である“くったくのなさ(desinvoltura)”―“話したり、笑ったり、何か動作するときにそのことを以外にもはやなにもこだわらないことを示し、見ている人に失敗するのではないかという危惧の念を起こさせない態度”―からももたらされる。」(東海大学出版会,1987年,p.783)

 かつての大西洋横断旅行や舞踏会で、特権階級が自らの社会的地位を誇示するために身に着けたラグジュアリーなモノは、むしろ悪趣味(cattivo gusto)とされるわけです。要するにイタリアとラグジュアリーはそぐわないのです。イタリアはグッドテイストなモノに満ち溢れた国です。九鬼周造の「いきの構造」の図式を用いるなら、シックで上品なモノに溢れている、と言ってもよいでしょう。

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