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イタリアにおけるデザインの定義(簡易版)

以下、拙著『イタリアのデザイン思考とデザインマネジメント』からの引用です(ページ数は拙著を参照)。英語のデザイン(design)という言葉は、一般に、意匠、考案、設計、図案、計画、意図といった意味で使われることが多いのですが、イタリアでは、デザインを指示する言葉はプロジェット(progetto)であり、具体的にはデザインプロジェクトのことを指します。英語のプロジェクトに該当するこの言葉には、pro(前へ)gettare(投げる)―即ち企図する・構想する―というニュアンスがあり、英語のenvisionやenvisage―将来のことを心に描いて、先取り的に実現する―と近い言葉です。なお、デザイナーは、デザインプロジェクトを指揮監督するプロジェッティスタ(progettista)とも呼ばれ、建築家(architetto)がデザインすることも多いイタリアでは、デザイナー・プロジェッティスタ・建築家はほぼ同義です。

日常生活の中で幸せを実現するシステムのことをイタリアと呼んでよく、このシステムの内実は、(a)日常生活の劇場化と、(b)日常生活の中に美(グッドテイストなもの)を持ち込むことであり、そうすることによってクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を上昇させることができます。QOLを上昇させた上で、生活環境(=ゲニウス・ロキとしての場所)と結びついた個々人の尊厳が満たされれば、幸福が達成されます。(a)日常生活の劇場化と、(b)日常生活の中に美を持ち込むことに寄与するイタリアンデザインの種々相は以下のようにまとめられます―(a)と(b)の側面を持つデザインを手掛けるデザイナーの性質についてまとめたのが(c)です。

(a) デザインの起源=原理としてのバロック


M.Belliniが指摘するようにデザインの原理はバロックを起源とし、それによると、デザインとは、神ではなく人間が創造主となって、美の法則までも自ら制定し、既存の世界秩序を受け入れた上でそれを再設計(創造)するということ(昇華)、言い換えれば夢のような世界をゼロから設計するということです―デザインすることは人間の運命であるともいえます。デザインの起源であるバロックの伝統から、以下のような特徴が導き出されます(pp.9-10)。
―通常の生活世界を舞台として眺めることで、単調で刺激を欠いた日常生活の劇場化が可能となります。デザインされる個々のモノは、この劇場化された世界を構成する舞台装置であり、世界の中にいる人は、消費者でも市民でもなく、俳優・女優として自らの人生をドラマチックに演じます(pp.11-13)。
―デザインされたモノや空間には、官能的でスペクタクルな側面があり、そうであるからこそ、人々を惹きつけることができます(p.11)。なお、スペクタクル(見世物)という言葉には、G.ドゥボールの「スペクタクル社会」のような否定的なニュアンスはありません。
―デザインされたモノは、抽象的であるがゆえに神秘的あるいは神話的な解釈を許し、結果として興趣に富んだものとなります(p.14)。
―構想する者と実行する者との社会的な階級分離を乗り越えるようなユートピアへの視座があります(pp.15-16)。

(b) 日常生活の中に美を持ち込む


優れたデザインとはグッドテイストと同義であり、ハレとケを分けないイタリアのライフスタイルにおいて、長寿命かつ美観を備え、自らが含まれる空間全体の性質を反映するようなグッドテイストなモノを日常生活に持ち込むことでQOLは上昇します。以下でグッドテイストなモノの三つの性質を挙げます(pp.74-75,77-80,90-92)。
第一の性質―空間全体の様式美を考慮する点が挙げられ、もしラグジュアリーなものが室内装飾や街並みが備えている雰囲気を壊すならば、それは悪趣味となります。
第二の性質―社会的地位を誇示するためのラグジュアリーと対立する側面を指摘できます。具体的には、(1)(ハレとケを分けないライフスタイルにおける)下からの趣味の洗練、という意味での民主的な側面と、(2)これ見よがしに派手な浪費を行うのではなく“さりげなさ(sprezzatura)”あるいは“くったくのなさ(desinvoltura)”を良しとする側面があります。
第三の性質として、グッドテイストが流行に左右されないという点を挙げることができます。たとえば、カフスボタン・ネクタイ・ネックレス等の購入の際には、個々の人が自らのテイストに合致するとみなすモノが購入されるけれども、それらは人為的に流行を作り出すスタイリングの論理に従った結果ではありません。
なお、(上からではなく)下からの趣味の洗練という性格を持つグッドテイストなものを社会全体に浸透させるには、常に観客が存在するとして互いの着こなしを批評し合ったり、読書も、あたかも詩を朗読するかのように周囲に聞かせるようにしつつ、オペラ歌手のように鼻歌を歌うのが良いということになるでしょうか。

(c) デザインを担うデザイナーの特徴


―デザイナーは、かたちの専門家であり、人文学・社会科学・自然科学の三つの側面を同時に考慮しながらコンセプトに対してかたち(フォルム)を付与する―但し、その与えられるかたちは、簡単には廃れないような美を備えているため、ファッションのスタイリングの論理とは異なり、刷新・更新される回数は少ないという特徴があります(かくして商品寿命が長いので、室内に存在する商品の数を減らして室内の景観をすっきりしたものへと仕上げることができる)。また、三つの側面のバランスを考えるため、美しさと実用性が乖離するような製品はデザインされません(pp.13-15)。そもそもイタリア人にとって、美は鑑賞するものでなく、日常生活の中で使うものです。
―建築の素養を持つ者としてデザイナーは、空間全体のクオリティに寄与するように個々の製品をデザインし、またデザインされたモノも空間全体の性質を反映している(そうであるがゆえに、デザインされたモノはグッドテイストなものとなります)(p.13)。
―企業ではなく社会の中に埋め込まれたデザイナーは、市場動向だけでなく、政治や文化とも対峙することで、ライフスタイルの将来ビジョンについてマーケッターを凌ぐ直観を有しています(p.15)。
―デザインの発想法では、人ではなく場所が主人公であり―Human Centered Design(HCD)というよりもBeing Centered Design(BCD)―、この主人公としての場所(環境)を作る専門家であるのがデザイナーです(人間の周囲の環境に五感を刺激するようなモノを配置する)。かくして主観的効用を極大化する主体である消費者のニーズには追随しません。消費者の主観的満足を超えた地平を視野に入れるデザイナーは、3人称の視点を持つ者として、場合によっては、消費者に不便さを強いるけれども、当該消費者の人生をよりよくするような選択肢を(おせっかいにも)提示します―人が幸福かどうかは本人の主観を超えて客観的に判断し得るからです(pp.19-20)。
―言葉も数式も介さず、線と形と色と音と量感の集合を直接操作するようなイメージによる思考をデザイナーは行います(典型的にはインテリアデザインの場面)。強度のデザイン思考は、どこかで見たモノを再現するイマジネーションというよりは、この世に存在しないようなモノを思い浮かべる(イメージする)という意味でファンタジー性に富んでいます(pp.16-18)。なお、エンツォ・マーリは、ワークショップを通じて、子供がイメージで思考することに気が付きました。

かくしてイタリアのデザイン思考は、「問題解決」を含んでいるものの、IDEOに代表されるアメリカのデザイン思考とは似ても似つかぬものです。ビジネス上の問題を合理的に解決する手法としてデザインを狭義に捉えれば、上記の豊かな内容をもった“デザイン”の魅力が削がれてしまうでしょう。そもそも米国の工業デザインは、「口紅から機関車まで」で知られるレイモンド・ローウィ(米国人工業デザイナー)以降、機能と性能重視に舵を切ったため、見るべきものがありません。その意味で、いわゆるIDEOに代表される米国型デザイン思考は、工業デザインの歴史的実践が伴っておらず、金科玉条とするものではないのではないでしょう。

なお、イタリアのデザイン理論に興味がある方はE.Frateili,G.C.Argan,G.Dorfles,R.De Fusco,G.D'Amatoといったデザイン理論家たちの著作にあたるとよいでしょう。もちろんA.Branzi,M.DeLucchi,A.Mangiarotti,A.Mendini,Sottsass,E.Mari,B.Munari,G.Aulentiなどのデザイナー(兼建築家)も著作を残していますので、そちらも読むに値します(CitterioやZanusoについても本があります)。Mari,Munari,Sottsassについては日本語で幾つか翻訳も出ています。なお、ファッションについては、別のインテリたち(A.C.Quintavalle等)の論稿を参照する必要があります。

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