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「自分の写真」という曖昧な存在

みなさんは「自分の写真」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

まず大きく「自分が写った写真」と「自分が撮った写真」に分かれます。

自分が写った写真も、自分が主役に写っている写真は自分の写真ですが、風景や他の人と写っている写真はどこかの段階で「自分の写真」と言えなくなります。

同様に自分が撮った写真には、撮影者が主体的に被写体を決めて表現した作品は自分の写真ですが、シャッターを切っただけの記録写真はどこかの段階で「自分の写真」と言えなくなります。

「自分の写真」を見分ける方法

このように案外に「自分の写真」という定義は曖昧です。基本的には気持ちが決めるものだと思います。

例えば、自分の写真が褒められたら嬉しかったり、逆に否定されたり汚されたら悲しかったり怒りを覚えるようであれば、それは「自分の写真」なのだと思います。

自分が撮ったという実感

この感覚はカメラの自動化や進化と深く関わっています。単純な記録が目的であればもともと自分の写真にしようとは思っていないのでオート撮影で問題はありませんが、アートフィルターなどのモードを設定しただけでシャッターを押せば作品風の写真が撮れてしまう場合は微妙です。良い写真は撮れますが、自分が撮ったという感覚が残らなければ自分の写真と思うことができません。

どんな操作が実感に繋がるのか考えてみます。

シーンモードやアートフィルターを選択してシャッターを切るだけだとちょっと物足りないように思います。それに対して露出補正やホワイトバランスはいくつかの選択肢の中から1つを選択するという操作に変わりはありませんが、細かい拘りを選択している感覚が少し高いように思います。

もう一つ、手間が掛かることは実感に繋がりやすいです。例えば単焦点レンズで足を使ってフレーミングを調整したり、フィルムカメラをフィルムのセットから現像に出してプリントが上がってくるのを待つことなどは確実に実感が得られます。

手間や時間が掛かるということでは「失敗」を繰り返してから成功するというプロセスが面白いと思っています。失敗と成功という言い方よりも「試行錯誤」の方が分かりやすいかもしれません。自分がしっくりくる表現を追求していくことで最大の満足感を得ることができれば、きっと写真を自分自身にすることができます。

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