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【秒速5センチメートル批評】幸せの所以を何に求めよう?【11450文字】

「3年付き合っていた恋人に振られた」
あぁ、悲しいね。
「心の摩耗と限界を悟り、仕事を辞めた」
そうか、つらいね。
「部屋で鳴った携帯を取ろうとして、ビールの空き缶を蹴飛ばした」
どうにも、苦しいね。

「それでも」
どうしようも無く幸福だ。

 『秒速5センチメートル』では、上記のような一見すると幸福から遠ざかる悲しい出来事やつらい事は実際の所幸福とは関係が無いし、幸福とは何かによって失われたり偶然だけで突如拾えたりするようなものではない、という事が主人公遠野貴樹の人生を通してはっきりと描かれていました。
あらゆるものに左右されない絶対的な幸福というものは存在する、もう少し正しい言い方をすると“本当の幸福は揺らがない“という事です。
悲しくてもつらくても苦しくても、幸福はそれらを内包する。

 しかし世間ではあまり前向きな作品とは受け取られていなさそうだったので、本記事ではそんな絶対的な幸福が如何にして描かれていたのか、如何にして成立したのか、そもそも貴樹って本当に幸福だったの?+aについて綴っていこうと思います。

 本題に入る前に……私の批評では毎度の事ですが、今回は映画『秒速5センチメートル』の批評となるので小説版や漫画版から得られる情報は勿論、作者やその他作品に関する情報は取り扱いません。批評ポリシーに関しては以下から。

また、ネタバレは最初からモリモリなので気にする方はご注意ください。

描かれた幸福の形

 最初に大前提を確認しておきましょう。
本作主人公の貴樹は物語の最後、3章にて
3年付き合った恋人に振られ、仕事を辞め、部屋に転がるビールの缶やごみを片付ける事すら出来ないような生活でした。
とても幸福とは縁遠そうに見える状態です。
ここまで視聴してきた方であれば「それでも明里の事が心の支えのようなものになっているから何とか生きているのかも」と想像が出来ます。

しかし3章の最後、明里とすれ違い踏切を電車が通り過ぎた後に明里が居なくなっていたのを確認した時、それでも彼は満足げに笑って歩みを進めていました。
3章で大人になった貴樹が笑っていたのは、このシーンと桜の樹を見たシーンだけです。

やろうと思えば走って追いかけてみる事も出来た。呼びかけてみる事も出来た。
そういった明里を追う行動を一切せずに前に進んだのは、それでいいからでしょう。もう少し嚙み砕くなら、明里そのものすらも貴樹の幸福には既に関係の無い事だから、となるでしょうか。
3章で貴樹の手からすり抜けていったもの全てが無くとも彼の幸福あるいは彼自身は完結しており、ずっと幸せに生きていけるからです。

絶対的な幸福の定義|世界内存在と世界外存在について

 3章の前半~中盤で貴樹が失ったと描かれる「恋人」「仕事」「良い環境での生活」。
これらは一般的に幸せそのものとされるか、あるいは少なくとも不幸を遠ざける間接的な手段として捉えられる場合が多いでしょう。
しかし貴樹がそうだったように、これらは現実問題として消失してしまうものであると言えます。
恋人には別れという消失が、仕事には離職という消失が、生活にも様々な形の消失があるでしょう。
そしてそれは、自分以外の誰かの都合、誰かの気持ち、偶然、認識の違い、あるいは自然災害という場合もあるでしょうか。ともあれ自分の意思以外の影響、もっと言えば世界内に物理的に存在するものの影響を受けて直接的に成立あるいは瓦解します。

一方で、傍から見ると人生のバッドイベントが連続しているように見える状況でも燦然と輝く幸福というのはつまり、3章の貴樹の歩みによって示されたように世界内に物理的に存在するものの影響を直接的に受けないという意味で絶対的な幸福だったと言えるでしょう。
ではそれは何によって成立しているのかというと、自分自身が心から信じられる何かです。
それ以外のものは一切必要とせず「何があっても自分は幸せなんだと確信しているから幸せである」という、取り付く島もない程に不瓦解性を持った幸福こそが、この物語で強く示された幸福の定義です。

これだけ聞くとわかりづらいかもしれませんが、例えば結婚していて仕事も順調で部屋も小綺麗であれば万人が幸福なのかと言われるとそんな事はないでしょう。
それは逆も然りで、では何が肝要なのかというと結局は自分自身が幸福だと感じているかどうかに尽きるのではないでしょうか。これがあるから幸せ、無いから不幸せと言った物質的なものではなく。

では貴樹にとっての幸福の確信はどこで生まれたのか、それを次の項目から解説していきます。

幸福の所在

明里と桜。神の樹立

 1章『桜花抄』では明里と貴樹の出会いと別れ、それから再会が描かれました。
明里と出会って自然に意気投合し、ただの友達以上の存在どころか漠然と将来すらも感じていた、と貴樹はモノローグしています。

僕と明里は、精神的にどこかよく似ていたと思う。
僕が東京に転校してきた一年後に、明里が同じクラスに転校してきた。
まだ身体が小さく病気がちだった僕らは、グランドよりは図書館が好きで

だから僕たちはごく自然に仲良くなり、そのせいでクラスメイトからからかわれることもあったけれど
でも、お互いがいれば不思議にそういうことは、あまり怖くはなかった。
僕たちはいずれ同じ中学に通い、この先もずっと一緒だと、どうしてだろう、そう……思っていた。

遠野貴樹/桜花抄

そして明里の引っ越しによって別れが決まってしまった時、ひどい言い方だと自覚していながらも突き放すような言葉を言ってしまった事。
卒業式でそれを謝る事も、自分らしい言葉をかける事も出来なかった事。
そして純粋に抱き続けていたであろう気持ちを明里に伝える事。
だから一年越しの再会は、本当に本当にたくさんの気持ちを乗せたものになるであろう旅でした。

あの日、あの電話の日、僕よりもずっと大きな不安を抱えているはずの明里に対して、優しい言葉をかけることの出来なかった自分がひどく恥ずかしかった。

明里からの最初の手紙が届いたのはそれから半年後、中1の夏だった。

彼女からの文面は全て覚えた。

約束の今日まで2週間かけて、僕は明里に渡す為の手紙を書いた。

明里に伝えなければいけないこと、聞いて欲しいことが本当に僕には沢山あった。

遠野貴樹/桜花抄

しかしその旅路は、はっきり言って散々なものでしたね。
約束当日は関東全域で大雪。路面状況に影響が出て、乗る電車はどれもこれも大幅に遅れてしまい、冷えた身体を温めようと自販機で飲み物を買おうとした拍子に明里に渡すはずだった手紙は風に飛ばされてしまう。
あとほんの数駅なのに電車は止まり、復旧の目途は立たない。
明里との待ち合わせ時間からは刻々と遠ざかって行き、携帯電話が一般的じゃない時代故連絡をする手段も無い。当然、遅れている電車を押す事も降り積もる雪を止める事も出来ない。

電車は結局それから、2時間も何も無い荒野に停まり続けた。

たった1分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。

僕はきつく歯を食いしばり、ただとにかく、泣かないように耐えているしかなかった。

明里、どうかもう、家に……帰っていてくれればいいのに……。

遠野貴樹/『桜花抄』

無力。
この時貴樹はどれほどのやりきれなさを感じていたか、推し量るにも余りある程です。
もう何もない。久々に会う想特別な相手を、明里を笑顔に出来る所以を何も持ち合わせていないじゃないか。
そして貴樹がこの往路で経験した絶大なやるせなさ、これらは言ってしまえば世界内の物理存在によって起こされたものである事が確認出来ます。
大まかに分ければ電車の遅れ(による明里との時間の消失)と手紙の消失の2つに起因するもので、これらは言うまでもなく物理的に引き起こされ物理的に解決されるものでしょう(手紙は気持ちを綴ったものだから物理現象じゃないと思われる方も居るかもしれませんが、「現時点で形が存在せず自分しか確認出来ない気持ち」を「他者にも見聞きが可能で理解が出来る言葉」に置き換えた時点でそれは物理的な世界内存在です)。

 さて、降り行く雪に反して余りにも黒く重い無力感で実際に迎えた明里との再会はというと、時間、言葉、気持ち、どれをとっても素敵なものになりましたね。少なくとも貴樹はこれまでに無いくらいの幸福を感じていた事でしょう。

以下は大きな桜の樹の前で明里とキスをした後に流れた貴樹のモノローグです。

その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、わかった気がした。

13年間生きてきたことの全てを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

明里のその温もりを、その魂を、どのように扱えばいいのか、どこにもって行けばいいのか。それが僕にはわからなかったからだ。

僕たちの前にはいまだ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。

でも、僕を捕らえたその不安は、やがてゆるやかに溶けていき、後には明里のやわらかな唇だけが残っていた。

遠野貴樹/桜花抄

太字で表した部分、この部分はまさしく世界の外側にある存在への言及、わかりやすく言えば物理外存在への言及ですね。
“わかった気がした“というのは、それらの存在によって今この瞬間が訪れていると感じているから、それらの存在が今この瞬間の幸福を証明していると感じているからそう思ったのでしょう。

散々だった旅路。その果てにあった明里とのキスによって紡がれたこのモノローグは、貴樹が明里と過ごすはずだったもっと長い時間も渡すはずだった手紙も奪われ、もう明里と楽しく過ごせる物理的な所以なんて全部失われて何ひとつ持ち合わせていなかったはずなのに、それでも此度貴樹が至った明里との時間は幸せだった。
だからこそ、貴樹はここで無意識に1つの確信を持ってしまったのです。
幸福は物理的なもの、つまり世界内存在によって齎されるものではない、と。
そしてそれだけでは終わらず、翌日の帰り際の事です。

朝、動きはじめた電車に乗って、僕は明里と別れた。

明里「あの……貴樹くん。貴樹くんはきっとこの先も大丈夫だと思う。絶対
貴樹「ありがとう。明里も元気で……。手紙書くよ、電話も……!」

明里への手紙を失くしてしまったことを、僕は明里には言わなかった。
あのキスの前と後とでは、世界の何もかも変わってしまったような気がしたからだ。
彼女を守れるだけの力が欲しいと、強く思った。
それだけを考えながら僕はいつまでも、窓の景色をいつまでも見つめ続けた。

遠野貴樹/桜花抄

この「大丈夫。絶対」という言葉を明里から受け取ってしまった事で、貴樹の中で今回の経験はより強い確信へと昇華してしまい、更に言えば元々明里との思い出もありキスをした場所でもある「桜」がこれらを象徴する概念として彼の中で結びついてしまいました。
噛み砕くと、この時から貴樹の中での「桜」というものに対する経験、意義は、「永遠」であり「心」であり「魂」であり「それらをわかった気がしたあのキスの瞬間」であり「この先も絶対に大丈夫」であるという事です。
もっともっとわかりやすく言うなら一生モノのトラウマの真逆という感じでしょうか。

 「……いや明里よ、そして貴樹よ。一体何が絶対に大丈夫なの??主語というかスケールがデカ過ぎない?その根拠は??」となるかもしれませんが、「彼らの経験」という他の人には手に入れる事も見る事も出来ないものを根拠としている為、その根拠を言葉などの世界内存在に置き換える事は出来ません。勿論出来事を書き出して言葉で羅列する事は可能ですが、その文字に「彼らの経験そのもの」までもを内包する事は不可能です。
というか、私達が何かを信用する根拠においても「その根拠って何なの?その根拠を信じられる根拠は何なの?根拠の根拠を信じられる根拠は?」と深堀りしていけば最後は言葉で表せるような物質的な根拠ではなく「自分が信じたいと思えるかどうか」という物理外の解答に行きつくのではないでしょうか
それでも言語化を試みるならば、卒業式で明里とあんな別れ方をして、月日も経ち、ここまでの旅路の中であれだけ世界内存在によって胸の内が暗く染められたにも関わらず、そんなものは無かったかのように前と変わらず、否、それ以上に幸せに過ごせた明里との時間と関係。世界内存在の影響を全く受けなかったに等しいそれは貴樹にとって不変のものだと感じられたのでしょう。
不変だから大丈夫。絶対大丈夫。
言葉にするとやはり陳腐化してしまいますが、彼の心に興ったそんな1つの信心を汲み取れる気がします。
また、「彼女を守れるだけの力が欲しいと強く思った」という点も見落とせません。
貴樹の不変の絶対性の中に、この強い気持ちも組み込まれてしまったのですから。

“絶対“の証明。意義は世界に属さない

 3章『秒速5センチメートル』において、貴樹は踏切ですれ違った明里を追う事はしませんでした。
勿論明里との事を忘れたわけでも、あの再会で宿った彼の中の炎が消えてしまったわけでもありません。

この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて

それが具体的に何を指すのか、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働き続け

気づけば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。

そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知ったした時、会社を辞めた。

遠野貴樹/秒速5センチメートル

むしろ我武者羅に手を伸ばしているような、目的への推進力であれば3章の方が強そうな印象すら受けますね。
しかし実際に明里を求めてはおらず、そして何より「かつてあれほど真剣で切実だった思いがきれいに失われている事に気づいた」と言っています。
このモノローグの後に、明里と再会した時の夢を見たというモノローグが入る為、恐らくその夢で明里を思い出し、目覚めた朝に残っていた夢への所感として明里そのものへの気持ちが消失している事に気が付いたのでしょう。
貴樹は再会の日の別れ際に「彼女を守る為の力が欲しい」と言っており、きっとそれだけを見つめて生きてきた。2章でもそれは感じられます。
そう、「彼女が欲しい」のではなく「守る為の力が欲しい」と言っているのです。
切っ掛けは間違いなく明里だった。明里との経験だった。しかし1章で貴樹が意義を見出さなくなった世界内存在には当然、物質的な存在である明里そのものも含まれています。
いくら切っ掛けでも、キスをしたような相手でも、世界内存在だからそこに意義はない。意義は、失われている。
その事に本人もようやく気付いたのがこの瞬間だったのでしょう。
そしてその証明が、踏切で明里とすれ違った時に行われた。
あぁ、追いかければきっと追いつく。声をかければきっとまた言葉を交わせる。
でも、もうそこに意義は無いんだ。
明里そのものというのはある意味貴樹にとって最後の楔だったのだと思います。
でもその楔も存在していなかった。それを確認した事で彼の実感する幸福は確定し、だからこそ笑って前に踏み出せたのです。


 やや余談気味ではありますが、貴樹が世界内存在に全く意義を見出していない事の描写は3章の中で他にもあります。3年付き合っていたとされる女性、水野理沙さんです。
彼女から別れを告げられるメールの文面は以下のようなものでした。

あなたのことは今でも好きです。

でも、私たちはきっと、1000回もメールをやりとりして
たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした

水野 理紗/秒速5センチメートル

これは想像に難くない事だと思いますが、どんな関係性であろうと相手との仲を深めるのであればまずは世界内存在の、つまりは物質に投影される相手の存在や価値を認め合う必要があるでしょう。

こんな服が好きなんだ
こういう色が好きなんだ
笑顔がとっても素敵
この食べ物は嫌いなんだ
こういうものを大事にしているんだ

こと恋人となれば特に物質的な相手を知る事は重要でしょう。物質的なものは直接的にじゃなくとも本人の精神的なものに繋がっていたりする事が多いと思います。
しかし貴樹は世界外存在に自身と目的を置くあまり、世界内存在である水野さんを全く眼中に入れていなかった、というのがこのメールから察せられます。
多分本当に興味が無かったし、だから知ろうとしなかった。自分の恋人が何が好きとか嫌いとか、何をしたいとか。
それを指して水野さんは「たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」と言ったのでしょう。

貴樹と“その他“の対比

限界まで一途な少女と世界外を見る少年

 ハッキリ言ってしまうと、これまで語ってきた視点から見た遠野貴樹の人生とその幸福の在り方というものは1章と3章があれば成立してしまうと考えています。
それでも『秒速5センチメートル』という物語にこの章が存在する意味は何かと言うと、テーマの補強だと考えられます。
1章は問題文、3章は答え、2章は途中式のようなものと表現すると伝わりやすいでしょうか。
2章が存在する事で、これまで語ってきた貴樹が一章で得てしまった確信やその強さというものをより正しく感じることが出来ます。
この章で遂行された事は、絶対的な幸福を抱いた貴樹と一般的な幸福を追い求めようとした女の子澄田花苗との対比、あるいは恋を通して世界外存在を感じた貴樹と、あくまで想い人本人という世界内存在を追い求めていた花苗の対比だったのでしょう。

 貴樹に一目惚れをして最終的には5年という花苗。学生の期間にこれだけ片思いを続けているというのはかなり一途と言えるのではないでしょうか。
そしてそんな彼女の悩みや言動はいつも世界内存在を捉えたものでした。
高校を卒業した後の進路の事
サーフィンで波に乗れないという悩み
貴樹と一緒に帰りたいな
コンビニで買う飲み物何にしようかな
などなど。他にも彼女が自身の幸せについて言及したモノローグにはこんなものもあります。

もし私に犬みたいな尻尾があったら、嬉しさを隠し切れずにぶんぶん振ってしまたっと思う。

あぁ、私は犬じゃなくてよかったなーと思い、そういう事に我ながら馬鹿だなーと呆れて、それでも、遠野くんとの帰り道は幸せだった

澄田香苗/コスモナウト

このように、モノローグで言及される幸福の形や心配する事などまでも!全てが物理現象によって成り立ち、そして失われる世界内存在である事が確認できます。
貴樹が言う所の「永遠とか心とか魂とか」とは違う、世界内存在。
この章では即ち、「世界内存在に重きを置く香苗」と「あの再会の後から世界外存在に重きを置く貴樹の対比」、もう少し踏み込むなら「現実に居る想い人に限界まで真っすぐな少女」と「現実への想いを凌駕する気持ちを携えた少年」のような感じでしょうか。
香苗はこんなに貴樹を一途に思ってる!でも貴樹はそんな香苗を歯牙にもかけない。それは明里に一途だからじゃない。もう現実なんて見てないから。そんな所に貴樹の目指す幸福は存在していないから。
3章「秒速5センチメートル」を見てからこの2章「コスモナウト」を振り返るとそれがわかりやすく描写されていると思います。


貴樹と明里を分けたものは何か

 さて、ここまでは貴樹を中心に焦点を当ててきました。
しかし実際には明里も貴樹と全く同じとは言わないまでも非常に近い経験をしているはずです。
あの再会の夜、色んな言葉を胸に秘めて臨み、不安や焦燥に駆られてもいたはず。そして貴樹との再会を嬉しく思ったはず。
2人の出会いが語られる際に貴樹と明里は“精神的にどこかよく似ていた“と示されている事からも、これがただの予想や想像の域に留まらないと言えるでしょう。

 貴樹は自分と明里が精神的に似ていると感じていた、そしてそんな明里とずっと一緒に居られると漠然と思っていた。
実際に2人は同じ中学校に進学する予定だったようですし、彼の思う「この先」というのは中学だけとかいうレベルではなく本当にこの先ずっとなのでしょう。
また、3章内では映像だけながらも他の異性と居る時ですら離れ離れであった2人がお互いにお互いを気にしていたり、モノローグで「私も彼も、何の迷いもなくそう思っていた」と明里側も貴樹に似たものを感じていた事がわかったりと、やはり精神的に似たもの同士だったんだなと確認出来る描写が存在しています。

昨日、夢を見た。
ずっと昔の夢
~~中略~~
降り積もる新雪には、私達が歩いてきた足跡しかなかった
そうやって、いつかまた、一緒に桜を見る事が出来ると
私も彼も
何の迷いも無くそう思っていた

明里と貴樹/秒速5センチメートル

2人の精神性が近いなら貴樹が感じていた「この先もずっと一緒」は明里も感じていたはずで、実際にあの再会の後にもまた一緒に桜を見れると確信していた事も明らかになっている。
にも関わらず3章で明里は他の男性と結婚し、貴樹は明里を追う事をしない。ふたりの道は大きく分かたれてしまっています。
何故なのか?

 端的に言うと“心から救われたと思う為には心から絶望していなければならない“という事なのでしょう。
1章の解説で示した通り、貴樹の“救われた“という経験の中には前提としてたくさんの物質的なものが失われた経緯があります。
しかし明里は物質的な消失とそれに伴う絶望が彼ほどありません。駅で彼を待っていた時間も“もうすぐ貴樹に会える“という期待が時間と共に遠ざかって薄まっていくような、消失というよりは希釈の方が近いイメージなのではないでしょうか。
あの時持ってきていた手紙も最終的には貴樹に渡さなかったものの、それは自分の意志で渡さなかっただけで失われたわけではないですね。
恐らく明里は貴樹ほど絶望してあの再会に臨んだわけでは無かった。
故に、似た精神性で似た体験をしても、彼ほど救われたという上げ幅が無かったというか、“幸福に物理的な世界内存在は必要無く、経験に紐づいた桜だけが心に在る“というような状態に至らなかったのだと思います。

 しかしそれは明里が貴樹の事を何も思っていないという事ではありません。
東京に嫁いできた時も貴樹の夢を見た話をモノローグしているし、結婚後も桜に対して特別な想いを抱いているような描写が確認出来る。きっと貴樹との経験はかけがえの無いものになっているのです。
ただ、ただ、彼女がした経験というのは世界内存在が失われていないままだったので貴樹ほど世界外存在に結び付くには至らなかった。言い換えると、明里はキスをしても「永遠とか心とか魂とかが判ったような気」はしなかったという事ですね。これはこれとして大きな思い出にはなったけどそれ止まり。
結果、連絡が途絶えて久しくどこに居るのかいつ会えるのかもわからない初恋(多分)の相手よりも世界内存在を、わかりやすく言えば“現実“に重きを置いた選択として他の男性と結婚をしていたのでしょう。
再会前の手紙のやり取りの中で明里は桜の樹を見て貴樹の事を考えているような描写がありました。きっと今後も桜を見るとあの日の寒さや貴樹と過ごした時間、キスの事なんかも思い出していくと思います。
だから貴樹と明里に生じた差は本当に本当にほんの少しのものだった。真に絶望していたか、そして救われたと思ったか。

 踏切ですれ違った時に「今振り返れば、きっとあの人も振り返ると強く感じた」と貴樹に言わしめ、きっと明里もそう思い一度振り返ったにも関わらずそこに姿が無かったのは、世界外存在を確信して前に進んだ貴樹と同様に、彼女は彼女で現実を抱いて前に進んだからなのです。やはり似た者同士なんでしょうね。

貴樹の抱く幸福の正体。彼は本当に幸せなのか?

 再度断言しますが、これは幸福の物語です。
不朽の幸福。何者にも左右されない強い幸福と言ってもいい。彼はどんな苦境にあったとしても、死ぬまで幸福でしかありえません。
これは多分宗教と変わらなくて、「あぁ、救われた」と心から思った時に“これに救われたと思った何か“にその人は今後強く意義を見出してしまうと言えば伝わりやすいでしょうか。
意義を見出した対象がある人は教典に記されている神であり、貴樹の場合は桜であるという感じですね。
前者の場合は神をより強く認識、可視化する為の手段や場所として御神体や教会・神社みたいなものを造り、後者の場合はそれを桜に視たというだけでやってる事自体は同じです。
ただこれを外部から直接説かれたりして与えられるのではなく自分の中で経験を通して発見する事が肝要で、既存宗教の神を信じるのと自分で祀り上げた神を信じるのではその強固さというか、自分自身の体験から興ってしまった信仰であるが故に“疑う“という行為そのものが不可能というか道理が存在しないという意味で“疑えなさ“に大きな違いがあります。
そしてこの先の感覚は人それぞれになってしまうとは思いますが、自分の中から生じた絶対的なものを信じて幸福を定義し、それに従って生きるという在り方を私は美しいと感じます。
勿論、貴樹のともすれば人間離れした生き方やこの記事を見て改めて「おぞましい」「怖い」と思う方も居るでしょう。感性に正解など無いのでどちらが正しいという事もありません。
ただ、「美しい」と思うのも「怖い」と思うのも、やはり彼が3章のような状況でも笑っているから前に進んでいるからで、そう思う感覚こそが彼が幸福である(と我々が感じる)なによりの証なのではないでしょうか。
みたびになりますが、これは幸福の物語、それも、強い強い幸福の物語だと高らかに宣言します。

おわり

 一般的に言われるようなものとは違うかもしれませんが、「幸せ」や「幸福」と言った話をする時私は本作をよく頭に浮かべます。
幸福は物や他人に与えられるものではなく自分が何を信じるかで齎されるのだという事が示されており、その幸福の定義は私が持っていた幸福の定義そのままと言っても過言ではありません。
何より私も、昔ひまわりに救われたと感じ、それ以来ずっとひまわりに意義を接続して生きているので貴樹にはとてもとても共感しましたし「オレ達って、何してても幸福を感じてるしそれは死ぬまで続くっぽいよな!」と脳内で肩を組んだりしてました。
ただこの感覚はどれだけの人が感じているのか。私の識る幸福とこれを読む人の幸福にはどんな乖離があるのか、無いのか。そんな事をずっと考えながら、どころかこれを書いている期間に「あなたの幸福は何ですか?」と色んな人に尋ねたりと実行にすら移していました。怪しい人ですね。そんな中でも少しでもこの作品の素敵さが伝わればと思って書きました。
ここまで綴ってきた物語のテーマもですが、それを1人の男性の人生としてファンタジーとかでなくひと昔の日本というありふれた身近な状況に乗せて描かれているのもとても気に入っています。どこにあってもおかしくないし、幸せってこうじゃない?みたいなニュアンスを感じるというか、ほんの少しの気づきやちょっとの差でこういう形の幸福も生まれるんだよなみたいな。それでいて押しつけがましくない。幸福の形を提示するだけに留まっていて、それが美しく見えるかどうかは受け手の裁量が強いのが素敵です。

 

 実は本作の最初の批評の下書きから2年くらい経ってる上にこれは3代目の批評というよな代物なのですが、今回無事形に出来てよかったです。というか当時に書き上がっていたとしても今回の方が絶対に良いものになったという確信があるので、きっと2年前に書き上げてしまった世界線の私は悔しがっているでしょうね。
ちなみに半年ぶりくらいに本批評に着手してから前に書きかけた同作品批評を見返したら、そっちのがめちゃくちゃ真摯に作品に向き合っててすごく悔しかったのでそれでもおあいこです。内容は書きかけの方から7割くらい持ってきました。でも細かいディティールとか感情へのアクセスとか構成とかはこっちのが出来てると思います。多分…………。
ともあれ、ずっと書き上げたいと思ってた批評が1つ形になったのは本当に喜ばしい。よかったら一緒にお祝いしてください!
幸福な日よ、ありがとう!

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