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「自己紹介」=「経験」の振り返り(2004〜2006…陽)

自己紹介しながらこれまでの経験を振り返るシリーズ。第3回は中学時代②です。前回は「青春」という綺麗事だけではない「陰」の部分でしたが、今回は真逆の「陽」の部分です。
ケンカもしたり、泣いたり笑ったり様々ありましたが、「楽しかった学校生活」と自負できるのも中学時代でした。
(プライバシー保護のため、画像の一部を編集しています。)

中学時代の思い出

中学時代の思い出を語るとすれば、「体育祭」、「文化祭」、「部活」、「修学旅行」、「受験勉強」など様々あるが、私の場合はそれらの話題からは逸れた話から始めてしまう。

「釜石よいさ」への出演

始めに、2004年から3年間「釜石よいさ」に出演したことだ。
「釜石よいさ」とは、新日鐵釜石製鐵所(現:日本製鉄東日本製鉄所釜石地区)の高炉休止により街に閉塞感が漂っていた中、「街の活気を取り戻す」ことを目的に当時の若者たちが1987年から始めたもの。

当時の釜石東中は3年生が毎年出演していた。
どういう経緯で出演することが決まったのかは定かでないが、自分の代は1年生から「釜石よいさ」に出演した。
1年生の時は定型的な踊り方で出演していたが、2年生の時には家庭科の授業で製作した法被をまとい、オリジナルな踊り方で出演。3年生の時にはトップの写真にあるような格好で激しく踊っていたことを思い出す。

「釜石よいさ」はその後、震災による中断を経て2013年に復活。以降も毎年開催を継続してきたが、昨年は新型コロナの影響で中止。代替イベントの一環で、これまでの映像アーカイブスがYoutubeで配信され、2005年のアーカイブには当時2年生だった自分も映像に残っていた。(上記リンクの51:00以降に当時の出演シーンあり。著作権保護のため、閲覧はYoutubeサイトまたはアプリから。)
この3年間「釜石よいさ」に出演していた自分が、その8年後に実行委員の一人になるとは予想していなかったが、引き受けることになった時、始めに思い出したのはこの出来事のほかはなかった。

「42kmを歩く会」

タイトル通り42kmを丸一日かけてひたすら歩き切るイベントで(現在については不明だが)、当時は3年生にとって毎年恒例の行事だった。
しかもその42kmもただの平坦な道ではなく、下記スクリーンショットにあるとおり、隣の遠野市の遠野駅前から歩を進め、途中の難所「笛吹峠」を越えなければならないという過酷なルートであった。

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この動画はそのルートの一部であるが、「再び歩いてみろ」と言われたら歩きたくないルートである。
同級生とこの難所を越えて歩き切ったときの爽快感と疲労感、足の痛みはそう簡単には忘れられない。

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なぜ、この過酷な学校行事があるのか。
立案した大森厚志先生は私たちの卒業文集に行事の意図をこのように述べている。(90度回転になっている点はご容赦を。)

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この記事を書くにあたり、再度読み直してみた。
この卒業文集を受け取った4年後に震災に遭うが、改めて思ったことは、復興でも今のコロナ禍でも、ただ座って待ちぼうけしていればいいということはなく、復興完了だったり、コロナ禍が明けたり、その他ひっくるめて一つのゴール(目的地)に着くためにはひたすら自分の手で前進しなければならないことだと。
そのためにはゴール(目的地)の設定はしっかりしなければいけないことだと。

こう語っていくうちに他にも話したいことも出てくるが、また次の機会とさせていただきたい。

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