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カーマンライン

自分の中の合格点を撤廃する。
そもそも合格不合格の概念をなくす。
全てを自分として、出てきたもの全てが自分のフィルターを通した作品であると責任をもつ。

責任を持つというと硬くてニュアンスがちょっと違うな。
でも責任を持つ。これ、作ったものだよ。
これが自分そのものだよと。
全てOK. 全てGO. そんな精神。
でもちょっと無責任でいる。
自分だけど、これはこの日この時の自分であって、少し時間が経つとすぐにあの日あの時の自分になる。一瞬のうちに今の自分とは少し違う”誰か”が作った作品になる。
だからもう二度と完璧に全く同じスタイルの作品にはできない。だからここで言う責任とは、「まぁそうですね、自分の作品でし、た。ふぇ」そんな程度の責任のことを言っている。
そんな限りなくあやふやで自由で責任のない責任。

その状態を保てている時は調子がいい。
だからうまいこと自分をその渦の中で浮遊させてあげるスキルが必要になる。
でもなかなかそうもいかない。すぐ
もっと上手に、
もっとわかりやすく、
もっと丁寧に。
なんて”無駄”なことを思考してしまう。
ドツボに入ると抜け出せなくなる。沼。
創作が楽しくなくなる。最悪。

ちょーどいい具合にいい加減で、
ちょーどいい具合に真剣で、
ちょーどいい具合に無責任に、
いい具合な熱がこもっている。

そんなものが作れた時、今のやり方よかったと自分で思える。(作ったものが良かったというより、それを作った時のマインドとゆーか、姿勢というかそこがよかったと感じるんです。)
創るって楽しいなと、自分で思える。



海抜100Kmの地点をカーマンラインと呼ぶらしい。そこが地球と宇宙の境目として定義されている。
その境界が自分の中で高すぎると、宇宙までがとても遠くほぼ全てが地球的なアウトプットになる。
うまーい具合にそのカーマンラインを下げて、
地球の範囲をいい感じに狭くして、宇宙と混ざりやすくする。
カーマンラインが0になったら地球はなくなり地面から上が全て宇宙になる。
それだとそもそもアウトプットなどできない状態になるので、
それは好きに楽しめばいい。完全な一人世界。
今描いてて思ったけど、究極の芸術はアウトプットできないな。
頭にある状態、ただ感じている状態こそがまじりっ気のない宇宙。宇宙は自分の中にあるから。
宇宙と一体になればなるほどアウトプットする必要がなくなる。
宇宙と一体となるためにアウトプットしているのであって(いやそれは人それぞれだろ)
思考や想像が限りなく宇宙に近づいている時にアウトプットしようとするとたちまちそれは地球的なものになる。
なので本当の本当はアウトプットせずに頭の中にある状態がオーガニックな宇宙ということになる。
口や手でそれをこの3次元世界に出力しようとした瞬間に、脳みそ(理性)の風味がついたものになる。
そこにもっと良くしようとか、もっと上手にとか、そーいったシステマチックな思考が入るのだからもう添加物まみれである。

でもそんな現実に抗うように創作を続けるのだ。
カーマンラインの絶妙な高さを調整しつつ、
一番いいところを一生探すのである。
答えなどはない。
そうわかっているものに飛び込んでいくことのアホらしさ。だから何になるという虚しさと絶望の裏側に、果てしない希望を感じるのである。

今日は寒いからラーメンが食いたい。

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