『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』を読んで

小熊英二氏著『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』を読んだ。

読み終わって思った。これは素晴らしい本だ。

私の薄い知識で本書の書評をあれこれ述べるよりも、実際に本書を手に取って読んでいただく方がよいだろう。しかし、同書が万人向けの本ではないというのもまた事実であると思われる。

そこで、この稿ではまず同書に書かれていることと書かれていないことをかんたんにまとめ、想定される読者を挙げる。そののちに私のかんたんな書評を付け加えることとしようと思う。

概要

本書に書かれていることは、文字通り『日本社会のしくみ』であり、『なぜ現状このような日本社会のしくみになっているのか』ということである。

『未来の日本社会のしくみをこのようにしていこうじゃないか』という提言は書かれていない。本書は政策提言書ではないのだ。

また、本書は雇用についての本である。副題には『雇用・教育・福祉の歴史社会学』とあるが、9割方が雇用慣行形成の歴史についての記述であると言っても良い。著者自身もあとがきで、

当初の構想は、(略)。ところが雇用慣行について調べているうちに、これが全体を規定していることが、しだいに見えてきた。
そこで、最初に書いた草稿はすべて破棄し、雇用慣行の歴史に比重を置いて、全体を書き直すことになった。

と述懐している。この述懐自体が興味深い帰結であるとは思うが、雇用についての本であると理解せずに読み始めると、人によっては肩透かしを食らったと感じるかもしれない。

本書は『日本社会のしくみ』についての本であるが、それが形成された歴史のダイナミズムを理解するためには、他国のしくみとその歴史を比較検討することが有用である。本書の比較対象にはドイツとアメリカが挙げられている。これは、グローバルで活躍したいと考えている社会人にとってはごく標準的な想定だろう。

いわゆる啓蒙書・啓発書は、
「ドイツでは日本と異なり~~~~のような労働体制が常識的である」
「アメリカでは日本のように…………のようなことをしている会社はない」
という事実を輸入し、以って
「日本もドイツのように~~~~を導入すべきである」
「日本もアメリカを見習って………などはやめようではないか」
という結論を引き出す傾向がある。
しかし本書は違う。
ドイツにはドイツの事情があり、アメリカにはアメリカの事情があり、日本には日本の事情があったのだ。事情、というのは、本書の言葉を借りれば「歴史の積み重ねで形成された慣行」ということになろう。そして、事情を勘案せず、スポットで制度改革を輸入することはできない。「制度改革のつまみ食いは必ず失敗に終わる」のだ。

よって、日本社会のしくみに不満をおぼえ、隣の芝の青さを嘆きたいだけの人にとっては、本書は望ましい本ではない。ただ、著者も言うように、慣行は不変ではない。合意が形成できれば変更できるのである。合意の形成という点が政治の難しいところであるが、このような背景を学べば、政治の重要さを切迫して感じられ、政治により興味を持つこともできるのではないだろうか。

書評

日本は、一度社会のレールを外れると復帰するのが難しい、と言われる。そのレールの中で有名なのが、新卒一括採用だ。新卒で大企業に入社し、その企業で一生を送るのが「ふつうのくらし」とされる。

この慣行がどのように形成されていったのか、前々から疑問に思っていた。

本書を手に取ることになったきっかけは、もう記憶していない。もともと疑問に思っていたことではあったが、能動的に情報を得ようと調査したわけでもない。新聞の書評か、なにかのめぐりあわせだったのだと思う。

知識のない私が本書を読むまで誤解していたことがいくつかある。そのひとつは、欧米は日本以上に学歴社会であるということだ。日本では学士卒が一般的だが、欧米で上級職を得るには修士号・博士号が必要になる。その代わり、欧米では新卒には即戦力が求められるのに対し、日本では新卒は会社内でゆっくり教育して育てていくことが通例だ。この違いについて、私は欧米と日本の労働法制の違い、端的には労働者の解雇のしやすさの違いに起因するものだと考えていた。しかし、その労働法制の違いがどのような歴史的・文化的な差異によるものから生まれたのか、というところまでは思考を巡らせたことがなかった。本書は、このような点にまで切り込んでくれ、各国に共通した背景を理解する視点を与えてくれる。

印象深かった部分を2つ紹介する。

ひとつは、『第5章 慣行の形成』において、学歴による企業内層構造が慣行として成り立ちつつあった中で、知識層が過剰になり十分な職のポストを提供できなくなった部分である。

1930年の就職案内書は、こう述べていた。「最も憂慮すべきことは知識階級が就職困難のため自由労働者の中に入り込みつつあることで……思想的に極端に左傾し社会を呪詛し、無智な自由労働者に社会主義思想を吹込み、彼等を扇動する危険あり、之が警戒防止は失業問題の対策として最も急速に考究すべき点であるとされている」。

この部分を読んで、私は掛谷英紀氏のコラム『左翼エリートの選民思想』を思い出さずにはいられなかった。学歴エリートが現場で手を動かして働いている人に比べていかほど優れているというのか。そのように考えるのはエリートの傲慢と思えてしまう。

しかし当時の学歴エリートにも同情する点はある。彼等にとって、学歴を得て出世すると言うことは、家系によって固定されていた身分制度を自身の力で打破する象徴的な存在でもあった。その目標に向けて自己のエネルギーを勉学に投資した結果、得たいとかねがね考えていた職のポストが得られないとなった時の失望たるや、想像にあまりある。前の世代であれば得られただろうに、などと考えると、世代間格差を感じ、世代間対立も煽られかねなかったのではないか。今の時代にも通じる話だ。

もうひとつは、『第6章 民主化と「社員の平等」』での記述である。戦後の労働者たちは同一労働同一賃金を求め、学歴による差別の撤廃を求めて経営者と戦った。しかしその一方で、ただの労働者から何かひとつ上の身分を目指し、隣の人間との区別を求め、資格制度を求めたのである。

もっとも労働者たちは、差別の撤廃を要求しながらも、資格の上昇を望んでもいた。それは、学歴差別を批判しながらも、有名大学卒にあこがれることにも似ていた。

このあたりは、仲間と助け合って行きながらも仲間との差別化・競争を求めてやまない人間の性(さが)・業(ごう)が如実に現れていると感じてしまった。

自分は生粋の理系であることもあり、諸外国の制度についてはほとんど知ることがなく、まして歴史については勉強しようと考える機会すらなかった。そのような機会をくれた本書には感謝している。また、政治的に中立であろうと努力する筆者の姿勢には敬意を表する。とかく、諸外国の労働体制を説明する書物は日本の体制を批判することに主眼が置かれがちである。しかし、本書は異なる。政治的な意見を述べようとしない筆者の曖昧な態度に批判的な書評も見受けられたが、私はこれは筆者の意図であり本書の長所にもなっていると思う。

参考図書

下記は私が事前に読んでいた本である。日本のいわゆる学歴エリートがどのように形成されていったのか、また学歴エリートが果たした近代日本成立における役割についても、非常に興味深い記述が多く参考になった。参考図書として挙げておこうと思う。


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