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『縁側と猫』

近くにいた母親と兄弟たちの温もりはかすかに記憶に残っている。

僕が物心ついたときには生まれたときの家族とはすでに離れ離れになっていて、毛の色が違う別の猫たちと一緒にねぐらで暮らしていた。
人間が誰も住まなくなった空き家は、僕たち猫が身を隠すのにちょうどいい。庭は草むらになっていて、行き来をしても外からは気付かれない。木造の扉や雨戸は朽ちて、あちこちに空いた隙間から出入りできる。
僕たちは気ままに軒下で雨宿りをして、南向きに張り出した縁側で日向ぼっこを楽しむ。

「あら、今日は上手に狩りができたのね」
トカゲをくわえて持ち帰った僕に真っ先に声をかけてくれるのはミケさん。お世話好きで褒め上手で、この集団のお母さんのような存在だ。まだ幼かった僕にお乳や柔らかいごはんを分けてくれた。今もよく声をかけて面倒を見てくれる。
「どれ、もっとよく見せろよ」
威圧的な声を出して近寄ってきたのは僕より少し大きい体の、ズルくて意地悪な猫だ。ニヤニヤと笑いながら白と黒の模様がついた顔を近付けてくるので、横取りされないように距離を取りながら避けて通った。
縁側に上って、破れた障子の隙間から薄暗い畳の部屋に入る。畳の表面はボロボロで、歩くたびにザリザリと音が立つ。
奥の座布団に座っている大柄の猫が、ここに住むみんなからオヤジさんと呼ばれているリーダー猫だった。
「おぉ、よく頑張ったね」
僕が捕まえた獲物のトカゲをオヤジさんは褒めてくれた。
得意げに振り回して見せていたら、奥の壁の隙間からスラリとした体形のトラ柄の猫が入ってきた。トラ猫さんはオヤジさんのそばに寄って二匹で何かを話し始めたので、僕はその場から退散した。
トラ猫さんがいるときは大切な仕事があるから邪魔をしてはいけないと、前にミケさんから注意されたことがある。

「オヤジさんはねぇ、誰か好きな人がいるのよ」
暖かい縁側で横向きに寝転がって体に陽を浴びながら、ミケさんがぽつりと言った。
「誰か分からないけど忘れられない人。私がいくらそばに寄っても、まるで子どもを作ってくれないのよ」
草むらの合間に飛ぶバッタを目で追いながら、僕はミケさんから時々お母さんっぽくない話を聞かされた。好きな人と子どもができることの関係はまだよく分からない。
それから、オヤジさんはいつもニンゲンについての注意をしていた。ニンゲンの食べ物を盗んではいけない。ニンゲンが困ることをしてはいけない。これらは僕たちを危険から守るためであると同時に、ニンゲンのことも大事に思っているオヤジさんの気持ちも入っているように聞こえた。
そういうルールを窮屈に感じて僕たちの集団から離れていく猫もいた。

僕たちがねぐらにしている空き家の近くにある広場は、格好の狩場だ。
小鳥、トカゲ、昆虫、池の魚。そして揺れる草花と木々の小枝は絶好の遊び場になる。
「やぁ、小僧。元気かい」
池に向かう僕に声をかけたのは、ずいぶん前に空き家から離れていったグレー色の体をしたおじさんだった。
大怪我をした跡が顔にざっくりと残っていて、僕は初めて会ったときから怖かった。その口には、赤い魚の切り身をくわえている。ニンゲンから獲ってきたんだ。
「食うか?」と聞かれて僕は首を横に振った。
「つまんねぇな」見せびらかすようにその切り身をくちゃりと食べて、グレーのおじさんは後ずさる僕に近寄ってきた。
「あのオヤジが、なんでニンゲンの食べ物を獲るなって言うか知っているか」
甘い魚の匂いが漂う口を近付けて、声をひそめて僕に言った。「ニンゲンの仲間なんだぜ、あのオヤジ」
「えっ」僕はびっくりしておじさんの顔を見た。
「ニンゲンに捕まったら帰ってこられないぞ。ヤツらは俺らのたまり場を探している。見つかったら捕まる」
最後は低い声で付け足した。
「…そして喰われるんだ」
ニヤリと笑うと、グレーのおじさんはトトっと道路を渡り、生垣の隙間に消えていった。
僕は震えが止まらず、しばらくその場で立ち尽くしていた。

なんとかねぐらに戻ったあとも、僕はグレーのおじさんから聞いた話が蘇ってきて縁側の隅でぐったりと横たわっていた。
「腹でも減ったのか」
そう声をかけてきたのはトラ猫さんだった。
「こっちに来なさい」と言われるまま、空腹とショックで疲れた体をなんとか動かして、トラ猫さんから小鳥を少し分けてもらって食べた。
「あの、さっき聞いたんですけど。。」
僕はグレーのおじさんから聞いた話をした。とても一人でこんな重大な出来事を抱えていることができなかった。
トラ猫さんは僕の話を聞いたあと、少し黙って考えている様子をみせて、そして口を開いた。
「オヤジさんはどうやらニンゲンの言葉が分かるらしい」
まったく違う生き物である僕たち猫とニンゲンとの間に、そんなことがあるのだろうか。首をかしげて怪訝な顔をする僕に、トラ猫さんは続けた。
「ニンゲンに想う人がいるらしくてね、私たちがいくらそばにいてオヤジさんのために働いても、オヤジさんはいつかニンゲンの元に行くんだよ」
遠くを見るトラ猫さんは少し寂しそうな目をしていた。

トラ猫さんがまた出かけていくのと入れ違いに、部屋の奥からオヤジさんが姿を現した。
今の話を聞いていたんだ。
「ここだけの話なんだけどね」
オヤジさんはゆっくりと縁側に腰をおろすと、僕にだけ聞こえるような静かな声で話をした。
「私は元々ニンゲンだったんだよ。いつか家族の元に帰りたいと願いながらここで暮らしている。君たちにも、ニンゲンと争わずに暮らしていく方法がないかって考えているんだよ」
それからオヤジさんは、記憶にある家族の話をしてくれた。それは僕にとっては全く未知の、知らないニンゲンの世界の話だった。いくら聞いても考えても理解するのは難しい話ばかりだった。

いつの間にか日が暮れて、月明かりが縁側にいる僕たちを照らして影を作っていた。

それから数日後、ねぐらは大きな騒ぎに襲われた。
僕が池の狩場から戻ると複数のニンゲンたちがきていたのだ。
長い棒の先についた網の中に、見覚えのある白と黒の模様が見えた。一緒に暮らしていた猫のズルくて意地悪な表情が浮かんだ。ねぐらにいる猫たちが捕まっているんだ!僕も捕まる!
僕はくわえていた獲物を放り出して縁側から奥の部屋へと駆け込んだ。ニンゲンの発する大きな音と声が四方から襲ってきて頭に響く。
畳の部屋にいるはずのオヤジさんやトラ猫さんの姿は見えない。ミケさんも見当たらない。
次の瞬間、僕は大きな網に捕らえられていた。爪を立ててもがくと、どこからか「大丈夫だ」と声が聞こえた。
「行くんだ」
オヤジさんの声だ。
「悪いようにはされない」
助けて!
「そのまま身をまかせて」
オヤジさん、どこにいるの!?
「安全な場所で生きるんだ」
何のことだか分からないよ!
ニンゲンの大きな手で身体を掴まれて、別の袋に入れられる。いくら爪を立ててもどこにも引っかからない。
暴れる僕はそのまま疲れ果てるまで暗闇の中でもがき続けた。
次に明るい光を見たのは全く知らない場所だった。

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「だからね、民生委員さんも知らないって言うし、親戚の誰かかしらって班長さんとも話したんだけど、顔も何もまるで似ていないのよね」
通りを挟んで向かいの家に住む奥さんは、我が家の玄関先で持ってきた回覧板を手渡そうともせずに、最近姿を見るようになった"不審者"の話題を延々と続けた。
「かと言って、狙われる財産があるようにも見えないし、ねぇ」
同意を求めるような語尾とともに、奥さんはチラリと隣の一軒家に目をやった。誘導されて私も目を向ける。

ブロック塀に囲まれた裏庭は膝丈ほどの雑草が生い茂っている。塗装のはげた物置小屋の横には色褪せた植木鉢が積み上がり、土汚れと苔が長年放置されていることを物語っていた。
高齢の女性が一人で暮らすこの家に、最近中年の男性が頻繁に出入りしているのだそうだ。

「旦那さんが亡くなって7,8年かしらね」とそこで気付いたかのように「あなたたちが越してくる前だから知らないのよね」と付け足した。
「娘さんはお仕事で県外に行ったきり滅多に姿を見せないし、他に尋ねてくる人なんて何年もずっと見かけなかったのよ」
当時を知らなくても、繰り返し聞かされてきて覚えてしまった事情をまた聞かされながら、私は「はぁ」と相槌を打った。
「あなたはお隣で不安でしょうけど」奥さんは私を励ますようにポンポンと二の腕を軽くたたいてきた。「何か気付いたことがあったら遠慮なく知らせてね!」
じゃ、と、本来の目的だったはずの回覧板をぐいっと差し出して、奥さんは去って行った。
心配というより情報収集の種まきなんだろうな、と思いながら北側の通りに面した玄関ドアを閉めてリビングに戻った。

南向きのリビングから張り出た出窓は、飼い猫モカの特等席になっている。
保護猫活動をしている会社の同僚が子猫の引き取り手を探していて、そろそろ動物でも飼おうかと話していた私たち家族の元へとやってきたのがこの子猫だ。
焦げ茶色の体にところどころ白い部分があって、まるでコーヒーみたいだからモカという名前を付けた。

「また、お外を見ているの?」
野生で生まれ育ったせいか夫や息子に懐かず、かろうじてご飯の世話をする私からは逃げないようになったモカは、このところいつも出窓のガラス越しに外を眺めている。私もモカと同じ方向を覗いてみる。
ここからはブロック塀越しに隣の一軒家の庭と縁側が見える。そこには背中の曲がった高齢の女性と、その背中をさすりながら話しかける50代ほどに見える男性が並んで座っていた。
確かに親族や介護職員には見えない。昔の恋人や幼馴染だとしても年齢的に不釣り合いで、その関係性は全く想像できなかった。
ただ、暖かい日向の縁側でおだやかにお茶を飲む二人の姿から、不審な空気は一切感じられないのだった。
何よりこの人間嫌いのモカが、まるで知り合いであるかのように二人を眺めてくつろいでいるのだ。
通りからは見えないこの南の庭は、訪問してくる男性が手入れをして徐々に片付いてきた。私には彼がどうしても警戒するような悪い人間には見えなくて、噂好きのご近所さんたちにはしばらく黙っておこうと思う。

最近見るようになったといえば、トラ柄の野良猫もそうだ。
不思議な二人の座る縁側に立ち寄ったあと、隣の庭からブロック塀にヒョイと上がり、こちらの出窓を一瞥して去っていく。そのときモカが必ず挨拶のように尻尾を高く上げるのだ。保護の対象になる野生の猫ではあるものの、そのトラ猫の凛とした佇まいを見ると、保護猫活動をしている同僚に知らせることもためらう。
「もしかして昔のお知り合い?」
つれないモカは、話しかける私の方など見向きもせずに、まるで縁側の二人と寄り添うように出窓のクッションに丸まってお昼寝を始めた。

終(4,357文字)

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