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【ダイバーシティについて】 |見えない境界線の先にいる得体の知れない存在

就業に際し、不安は誰しもつきもの。
職場の雰囲気が自分と合うか、今までのキャリアが役立つのか、実際の業務時間はどれほどなのか…

今まさに就職活動に追われている私にも、もちろんそうした不安が。
しかし、それに加えて別の問題が、つまりは「タトゥー」や「ジェンダー」に対しての理解があるかどうかを気にかけています。それも、ジャーナリズムという領域で。そういう具体点から生まれたこの不安を一言で表現すれば、それは今や人口に膾炙されている Diversityダイバーシティ というものでしょう。

『はい。私は岸本拓己と言います。24歳です。
 大学ではフランス文学を専攻していましたが、起業し中退しました。
 バイセクシャルです。右腕と首にタトゥーがあります。』

デジタルジャーナリストとしてZ世代を対象に調査を続けていて、それに関する記事中で頻繁に見かける言葉がいくつかあります。ひとつは、その世代の大きな特質である「デジタルネイティブ」。そしてもうひとつが「ダイバーシティ」です。SDGs(Sustainable Development Goals;持続可能な開発目標)の5番目『ジェンダー平等の実現』や10番目『人や国の不平等をなくす』などからも、国家規模の牽引力をもってダイバーシティが推進されていることが分かります。
ですが、実際に私が今不安を感じている就職の場面なども含め、あらゆる社会における場面でダイバーシティが完全に実現されているかといえば、決してそうとは言えない状況です。そもそも、ダイバーシティを実現するための手立てがあるとすれば、それはいったいどういうものなのでしょうか?

"Two persons?"

社会の最低構成人数は2人だと言われています。
ですが、それが3人以上となると、多数派と少数派が生まれます。もしも3人のうち2人が右利きで、もう1人が左利きならその時点で「右利き:多数派」「左利き:少数派」という構図が生まれるように。もしその3人間に利き手における厳格な宗教観があったとすれば、少数派の左利きは間違いなく排斥の対象になるでしょう。
ただし、同時にその時多数派は少数派の存在に気が付きどう対処するかを考えるはずです。そして、排斥することの他に利き手における宗教観を再考するなど別策も考え得るでしょう。

ここで言いたいことは、コミュニティ内に少数派の存在があることは、多数派に固定概念を拡張させるきっかけを与えられるということ。

私の住むシェアハウスには、実にさまざまな職業や性質を持った住人がいます。企業に勤めるサラリーマンもいれば、フリーランスエンジニアやスタートアップ起業家、大工、アーティストがいます。そして、強迫性障害、うつ病、適応障害を持った住人も。
職業にせよ性質にせよ、自分とは異なる人をコミュニティ内に置くことで、視野が予想だにしない広がりを見せます。しかし、ただ1度触れるだけでは自分の心に好奇心または嫌悪感が生まれるに過ぎません。共に生活し、日常の行動ひとつひとつを目撃し、接近と別離を繰り返して、ようやく輪郭が見えてきます。ただ、その職業・性質の本質は分かりませんし、その人のことを完全に理解することは決してできません。それを理解した上で、少しずつ少しずつ、接近しては別離することを繰り返すべきだと思います。

"LIVING room"

ハリネズミのジレンマのように、どちらかが足を止めて近づくことを止めてしまえば、世界が望むダイバーシティはそれまでです。ところが、シェアハウスという共生空間にいたのなら、足を止めることはできません。日常生活の中顔を合わせることはどうしても避けられませんし、些細ながらもコミュニケーションすることも同様にそうです。これは、シェアハウスに限らず職場や地域などでもそうでしょう。シェアハウスという場所と違うのは、接近と別離の発生頻度が低いということくらい。
あとは、接近と別離を繰り返しながらお互いの輪郭を描いていくか、場所を変えてしまうかのどちらかでしょう。本当の意味でのダイバーシティを目指してはいない人は、そもそも人との接近も別離も深く考えてはいないでしょう。

実例を引き合いに出しましょう。
冒頭に載せた自己紹介のままですが、私はタトゥーがあり、性的マイノリティです。今のシェアハウスに住み始めた当初は、住人にタトゥーを物珍しがられたり、ジェンダーについての侮蔑的な発言を聞いたりしました。その度に、私がタトゥーの歴史を説明したり、発言に対し腹を立てたりします。
次第に、相手も言っていいこととダメなことの分別がついたり、単純に見慣れてきて、タトゥーもジェンダーのことも大して気にしなくなったのです。
これがその2つを理解されたタイミングと言えるかどうか定かではありませんが、いずれにせよ飽きがきたということから、私のタトゥーとジェンダーが彼らの中でいつの間にか"当たり前"になったということです。

"Taking care of yourself"

ダイバーシティについて、多様性を "受け入れる / 理解する" というように常に多数派の立場に立って言われているように感じています。それではいけないのです。言われたことに不服があれば勇気を出して怒りをぶつけ、誤った理解があれば正してあげられるよう未然に知識を蓄えたりと、少数派側にもすべきことはたくさんあるのです。なぜなら、そうしなければ衝突も別離も何も起こらず、お互いがお互いを見えない境界線の先にいる得体の知れない存在だ、と決めつけてしまうから。

少々荒療治のようなダイバーシティ実現論でしたが、要は
コミュニティに溶け込んでみて、足を止めることなく衝突と離別を繰り返すこと多数派が知識を蓄えることはもちろん、少数派も当事者なのだから誤りがあれば訂正できるよう一層深い知識を備えておくこと。"
このことが僕の中で重要なのではと思い至りました。

"Be Tokyo-like"


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【References】
● 2019年発表 東海大学准教授 藤岡美香子
入れ墨(タトゥー)の歴史と社会における受容に関する一考察
● Tattoo Friendly
日本のタトゥー史
● J-CASTニュース
「私はタトゥーを入れた」 毎日新聞記者がコラムで
● NEWSポストセブン
入れ墨検査に疑問呈した毎日新聞記者 自分の入れ墨披露拒否
● PIPE DREAM
The perceptions surrounding tattoos have changed, but not enough
● ABEMA TIMES
高級すし店には不適切? 「タトゥーがある」だけで男性解雇 “タトゥー=NG”の是非


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