世間は冷たいのではない。「黙っているだけでは助けは来ない」という話
昨日の記事では、「助けを求めること」をするとメリットがあるのに、それをできない原因について考えてみた。
この記事では主に「助けを求めること」をしたほうが良いのに、それをしない人たちの視点の内容とした。
本記事では「助けを求められる側」としての周囲の視点をお伝えすることで、助けを求める側に自分本位な部分がないかを考える機会としたい。
■ 助けたいけれど・・・助けていいのか分からない
このようなことを考えたことはないだろうか?
「こんなに大変なのに、周囲は分かってくれない!」
「困っている状況は明白なのに、どうして誰も手伝ってくれないの?」
私も仕事が忙しくなったりトラブルが重なって、心配して声もかけない・手伝う素振りもない周囲に対して孤独感を感じていた時期がある。 しかし、それはあるとき自分本位な誤りであると気づいた。
――― それは逆の立場になってみれば理解できると思う。
そもそも、周囲は「助けていいのか分からない」のだ。
自分が窮地におかれており、助けて欲しいと思う場面になった経験は誰もがあるだろう。それは自分のことなので「助けて欲しい!!」と思う気持ちは明確である。
しかし、他人が「助けて欲しい!!」と思っているかなんて分からない。仮に助けようとして声をかけたとき、相手から「助けはいりません」「特に困っていません」なんて言われたときには気まずくなってしまう。
■ 助けたいけれど・・・助ける力量があるか分からない
また、いざ助けるにしても、次のようなことが頭をよぎる。
「助けたいが、自分にその力量があるか分からない」
もしも相手から「助けて欲しいです、助かります」という意思表示を聞けたとしても、では何を手伝えばいいかとなったときに時間やスキル、あるいは立場として手伝えないことだと、せっかく声をかけたのにお互いに気まずくなる。
――― つまり、自分が助けを求めたい状況にあったとして、それを周囲は突き放しているわけでも、まったく気づいていないわけでも、ましてや手伝いたくないわけでもない。
単純に「この人は助けを求めているのか?」「自分なんかが手出しをして良い場面なのだろうか?」と躊躇しているだけなのだ。
そのような人たちを責めるのはお門違いではないか?
■ 黙っているだけでは助けは来ない
このように、周囲は助けを必要としている(と思われる)人たちを放置しているわけではない。世間は冷たいわけではなく、むしろ気にかけているくらいと思っても良い。
しかし、助けを要している人たちの中には、「この状況を見れば自分が大変なことくらい分かってくれるだろう」と思って、自分からは助けを求めないのに周囲から声をかけてもらうことを期待していることがある。
しかし、黙っているだけでは助けは来ない。
何も言わないと、周囲から手を差し伸べられることはない。
なぜならば、周囲は手を差し伸べていいか分からないのだから。また、その力になれるかどうか判断に迷っているからだ。
それなのに「こんなに大変なのに周囲は知らんぷり・・・ひどい!」「自分はなんて可哀そうなんだろう」と思うのは、もはや傲慢というものだ。
――― では、どうしたら良いのか?
それは、「自ら周囲に助けを求める」ということをするだけだ。
助けを求めるならば、声がかかるのを待っていてはいけない。
助けを求めることにより、そのときの事態を打破するチャンスを作るのだ。
それによって助けてもらうことで事態は解決の方向に向かうだろうし、助けを求められた側も「大変そうだから声をかけるか迷っていたから安心した」「助けてあげることができて良かった」と思える。
確かに「助けを求める」ということのアクションはハードルが高いが、その先にある目的に比べると実はたいしたことはない。それに、助けを求める側・助けを求められた側にとってもメンタルは落ち着くことにもつながる。
本記事では「具体的にどのように助けを求めるか」までまとめたかったが、また話が長くなったので、別な記事にしたいと思う。投稿した際にはお目通しいただければ嬉しい限りだ。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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