見出し画像

君が死んじゃっても、つまんねー世界は続くんだよな

幼いころ、「身近な人が亡くなるって経験したことないから死ってまだわかんない」みたいなことを言う友人がいた。小学生くらいのとき。確かにわたしもそうだった。死って何、亡くなるって何、っていう。

小学校高学年のとき、好きな人の妹が事故で亡くなった。新聞やニュースにも少しだけ取り上げられたけど、すぐ消えた。けど、好きな人は喪失と後悔でずっと苦しんでいた。そのギャップが気持ち悪かったし、好きな人が苦しんでいるのを救えないつらさがずっと引っかかっていた。

その1年後、仲の良い友人のおばあちゃんが亡くなった。その人はおばあちゃんっ子だったから、すごく落ち込んでしまって、ガリガリに痩せてしまった。励まそうと思ったけど、小学生にできる励ましなんてちょっとちょっかいを出して笑わせるくらいしかできなくて、もどかしかった。

中高校時代に付き合っていた人はお兄さんを亡くしていた。自殺で。「彼女と別れたショックもあったし、そのあと付き合った彼女も合わなかったみたいなんだよね」みたいなことを言っていた。うつ病だったのもあるらしい。
今までは落ち込むパターンの人ばかりだったけれど、この人だけは「まだ俺の心には生きている!死んでいるけど!」みたいな感じでお兄さんについて普通に話していた。亡くなった時のことも事細かく話してくれたし、「葬式はこんな風に飾り付けたんだー」とかも話してくれた。やたら明るかった。このパターンは初めてだったので、どう受け止めればいいのかわからなかった。

社会人になって何年目か忘れたけど、高校時代の同級生が殺されたことがニュースになっていた。高校時代の彼女は男と遊んだことをいろんな人に話して、「男は財布だから~!」と大声で言うようなタイプだった。悪い子じゃなかったし、友だちにも慕われていたけど、わたしはそんな好きじゃなかった。
自宅アパートの階段をのぼっているときに、後ろから刺されて死亡。犯人はもともと付き合っていたけど、実は結婚していた男。奥さんが彼女を訴えて慰謝料を払ったが、男にそのお金を返せと言い、争っていたらしい。男はその後自首。奥さんから暴行を受けていたとかなんとか。2ちゃんねるにもスレが立った。Facebookの写真がテレビに出回り、親友の子が「もうやめて」と投稿していた。

去年、大好きな友人が亡くなった。たぶん自殺。たぶん、というのはゴミ箱から大量の薬が出てきたから、もしかしたら薬のせいなのかも、とのこと。マンションから飛び降りたらしい。
亡くなる3日前はあんなに「生きていこう」としていたのに。人って本当に急に死ぬんだな。

死ってなんだろうな。亡くなるってなんだろうな。

ひとつわかるのは、「子どものころ思っていたより、死は暗くない」ということだ。思っていたより明るい。思っていたよりは。
いなくなる寂しさや悲しさ、救えなかった悔しさはあるものの、「存在していた」という記憶のほうが遥かに濃厚で、死の暗さよりも勝る。
「死んだ」けど、それはつまり「生きていた」のだ。そちらのが大事だ。

わたしは好きな人の妹がテチテチ歩いていたことを覚えているし、高校時代の同級生が急遽合唱コンクールでピアノを弾くことになって必死に練習して、なんとか弾けて泣いていたことも覚えている。
付き合っていた人のお兄さんがブルガリのプールオムをつけていたからという理由で、香水をプレゼントされたから、わたしは彼のお兄さんがどんな匂いだったかも知っている。
友人が「鳩は空飛ぶドブネズミって、前付き合ってた人が言ってました」と言っていたことを覚えているから、わたしは鳩を見るたび笑ってしまう。

君がいなくても、わたしは君がいたことを覚えている。それをできる限り誰かに伝える。それでいいんじゃないか。死への向き合い方って。
死を選んだこととか、死んでしまったことそれ自体を想うより、生きていたことを思い出して、尊びたい。

とは言え、やっぱり、彼らのいない世界はつまらない。めちゃくちゃつまらない。君が死んでも、つまんねー世界はずっと続いていく。君が生きていたことを思い出して、誰かに伝えてみても、物足りなくなるときがある。
そういうとき、「あーあ、なんで死んじゃったんだよー」って思う。「なんでだよー」って空に向かって言ってみる。別に、誰かに届くわけでもないけど。

応援があると人は強くなる。例外なくわたしもそのはずです。