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家事労働者として生きる。

おはようございます。ことよみです。
昨日は10時間くらい寝ていました。疲れていたのかもしれません。
ふと思ったのですが、日記らしい部分ってこの冒頭だけだったりするんですかね。おすすめ品の紹介とかって日記とは違うようなと、書きながら思いました。まあいいか。



今日は、最近考えている労働のことについて書こうと思う。


大学を卒業した時点で、私は就職が決まっていなかった。就職活動をしていないのだからある意味当然ではあるが、周りが皆新生活、新社会人として着々と歩み出している中で、仕事、収入源がない社会人として、不安を抱えた形での出発となった。
とはいえ一応、一般には進路とは呼ばれないが、個人的には進路だと思っている行き先はあった。
家事を担当することで合意しての同居である。
ここから私の同居人との二人暮らしが、家事労働者としての生活が開始する。

相方は就職先が決まっており、その収入で二人暮らしが可能な物件を探すところから、私の仕事は始まった。
新居が決まると、引っ越し先での諸々の準備、家電や家具の調達、2人分の荷物の整理、いわゆる住環境の構築を行うため、相方よりも早めに新居に越して準備をすることにした。
しばらくして、相方が新居に到着し新生活が始まると、いよいよ私の家事労働も本格的に始まることになった。

ここで、私の考え方を述べておこう。
仕事、労働というものは現在だと、賃労働を指すことが多い。いわゆるお金を稼ぐための労働だ。生活を維持するためにこの賃労働は現在欠かせないものになっている。しかし、賃労働をするためにもう一つ必要な労働がある。それが、家事労働である。賃労働を行う者の衣食住、生活基盤を構築し、支える仕事と呼べるだろう。
この家事労働など無報酬の労働をオーストリアの哲学者イヴァン・イリイチは「シャドーワーク」と呼んだ。
今の社会では、働くことイコール賃労働となっており、家事労働は労働と見なされないことが多いばかりか、場合によっては見下されている場合すらある。
だが、実際に家事労働を仕事として取り組んできて二年ほど経つが、これは仕事であると言えると思う。まず、休み時間は多いが、休みの日というのは基本的にない。起きてから眠るまで、何かしらの家事は実行されている。掃除洗濯炊事など、ここにもし子供がいれば、育児という非常に過酷な仕事が追加され、休み時間も消失する。

そして何より、家事労働は生きることそのものを作っているという点で、優れた仕事であると考える。

生きていくためには、食べたり眠ったりする必要がある。そして、その環境は勝手には生まれない、誰かが構築する必要があるものだ。
一人暮らしであれば、これら全てを一人で取り組まなければならない。特に現代は仕事と生活が切り離されているのにも関わらず労働時間が長い。こうなってしまってはまともな生活を送ることは難しくなる。
そうした点でも、家事労働者の重要性が見えてくる。

家庭のことを労働力の再生産装置と呼ぶことがある。悲しみのある表現ではあるが、事実だと思う。
今の人間は、人間でいるよりもまず労働者であることが多くなっているように思う。そして、その労働者を支える労働者として、家事労働者はいる。
これは地位が低いというわけではなく、非常な重要な位置付けにあるということが言いたい。

賃労働者がいなければ、家事労働はままならないが、家事労働者がいなければ、賃労働もまた、ままならないのだ。

こうした共存関係があるからこそ、私は家事労働は重要な仕事だと考えている。

そうした考えのもと、私は家事労働者としての生活を始めたのだが、やはり現代社会で生きていくにはお金が必要だ。
そこで私もアルバイトをすることにした。生活費の足しにするためだ。しかし、ここで私は心身を幾度となく壊してしまう。その内容については以下のnoteに記載している。

そんなこともあって、今は療養と家事労働に専念し、当分は家事労働者として生きることにしたのである。

これがある意味、私の天職なのかもしれないと、今は考えている。


今回はここまでにしたい。


本日もお読みいただきありがとうございました。
皆様の日々が温かいものになりますように。

それでは。



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