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昔から、雛祭りが苦手だった

先日、お雛さまを片付けながら「雛祭りが苦手だったこと」を思い出した。

実家でお雛さまの飾りつけや片付けを手伝っていたこともあった。箒や塵取り、熊手を、笑ったり怒ったり泣いたりしている人形に持たせるのは、楽しい作業だったかもしれない。

でも。

思春期に入って、変わった。高校生だった私は、日々広がる世界に興味津々で。体力や知力を思い切り伸ばさんとばかりに、家を出たがった。家にいなくなった。

当時の私は、自転車があれば変態から逃げられると思っていたし、周りの友人が危険な選択をするとは思えなかったから、夜でも平気で外にいた。そのことを、父は許さなかった。

「心配を盾に、自分の思い通りにしたいだけ」私は親の言葉を、すべてそんな風に受け取っていたように思う。そして、極め付けが父のこの言葉「養ってやってるんだから俺の言うことを聞け」。(きっと、こんなことを言ってしまったことを父は後悔しているだろうけど)

私は感謝のない生意気な人間だったので。(過去形にしたけれど、今もそうなのかもしれない)「養ってやってると言うが、この世に連れてきた責任もあるだろうが!」とはねのけた。心の中で。やはり若いっていいね、シャープネス。

そして「誰かに養われること」が嫌になって。自立できるだけの給料がもらえそうな専門職に惹かれた。それと同時に、結婚や家族、何かに縛られることがすごく嫌になって、「早く片付けないと婚期が遅れる」という言葉とセットの雛祭りが、苦手になっていった。

「私は結婚なんて、縛りなんていらない」「だから、雛祭りなんてしなくていいよ」と。

20代後半。いまの夫と別れたり付き合ったりをしているときに母が「あのときお雛さまを片付けるのが遅れたから、心配」と言ったときも「悪縁かもしれないのに結婚してどうする」くらいに冷めていた。

今親の立場にもなって、反省するところもたくさんある。自分は間違いなく生かされていたし、幸せであることを強く願ってくれる人がいることが、どうしようもなくありがたいとも思っている。

なんなら夫に生かされているし、そのことは素直にありがたい。さらに、縛られている感覚もない。

でもやはり、雛祭りを積極的にやりたいとは思わない。苦手だ。

私は娘に「必ず結婚してほしい」と思っていないから。「好きにすればいい」と投げやりなわけではないけど。ただただ、生きることを楽しんでほしい。これだけは譲れない。

でも、しんどくて生きることから目を背けたくなることもあるかもしれない。そんなときにプレッシャーに思う何かを、イベントを私はこれからも苦手でありたい。

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