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透明な毒|大阪の岡田塾というスパルタ学習塾に通っていた話1

その学習塾は「スパルタ教育」が売りだったそうだ。

その教育方針の通り、私が小学校2年生から5年生まで通っていた頃は、生徒へのビンタや掃除機のパイプで叩く、罰としてのうさぎ跳びやスクワットの強要、冷たい廊下のピータイルや屋上のコンクリート床での正座、23時の深夜まで及ぶ自習など、現代の感覚に照らせば虐待とも思える指導を余す所なく体験した。

その塾は大阪の肥後橋駅近くにあった。バス、または地下鉄で40分ほどの距離に住んでいた私は、小学2年生から5年生までひとりでその塾に通った。

私は幼い頃の記憶もよく覚えている方だが、その頃の記憶はとても断片的で、楽しかったことと辛かったことに極端に振れる形で記憶が分断されている。

一番強く覚えているのは、小学校4年生の時、私は自殺騒ぎを起こした時のこと。

その心境に至る理由は後述する。
私は理不尽に思えた塾通いと、それに疲れてままならない小学校からの宿題や授業、そしてとても小さなきっかけだけど、誕生日に欲しいものを父親と母親に伝えた時、出かけ間際の忙しさの勢いのまま、頭ごなしに「何を言うてるんや、そんなもん買うか、ちゃんと勉強してから言え」と否定されたこと。それがトリガーでこんな騒ぎを起こしたようだった。

小学校4年生の子供が、一体何から「死んで訴える」という方法を知ったのかは今となっても思い出せない。

きっとドラマか何かで見たんだろう。小学生らしくその方法も曖昧で、青いポリバケツと白いビニール紐をどこかから見つけて、それを階段の手摺に結びつけ、階段にポリバケツを伏せて置き、その上に片足を置いて、紐を首にかけて、泣きながら叫んだ。

「おれ、死ぬからな、もう嫌や!」

その時には父親、母親、ともに出かけた後だった。

いったい何事かと思って様子を見に来たのは祖母だった。

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